大正時事異聞録

伊佐坂 眠井

第二回・追跡者

 私が何をしたというのでしょう?家路を急ぎながら、私は只、ずっとその事ばかりを考えていました。足音は、私の後ろを、巧妙に距離を変えることなく、尾いてきています。


 私は、平凡な、職業婦人です。ごく普通の生活、いいえ、むしろ他の方々よりも、ずっと地味な人生を歩んできたと、自分では思っております。


 愛する人、ですか?それでしたらいます・・・いえ、いました。三ヶ月ほど前に別れてしまいました。どうして、かって?・・・さあ、私の存在が、あまりにも地味だったせいでしょうか。もう・・・忘れてしまいましたね、理由なんか。


 え?何時から尾けられるようになったかって?さあ・・・詳しくは・・・ああ、でもあの人と別れた頃からだったような気がします。


 まあ、とにかく、何時もそんな風にして、尾けてくる足音に怯えて暮らしていたんです。
 毎日でした、雨の日も、風の日も、あのずんぐりした腹、度の強い眼鏡。会社からうちに帰る道は、まるで拷問のようでした。


 でもね、その日は違ったんです。何時までも、私だってやられっぱなしは厭ですから。出刃をね、持ってたんです。それも、家庭に置いてあるようなのじゃなくって、料理人の友達からもらった奴です。


 人気のない裏道にさしかかったところで、私はいきなり走り出しました。急いで角を曲がって、そこで身をかがめてあいつの来るのを待ちます。すごい緊張感でした。心臓の音が、自分の頭で聞こえるぐらいの。


 あいつの姿が、角を曲がるのを確認すると同時に、私は、出刃を持って飛びかかりました。ずしりとした手応えが私の手に伝わって、溢れてきた血が、私の手にかかりました。あいつは何か口走ったようでしたが、私には良く聞き取れませんでした。


 罪悪感?無かったですよ、そんな物は。第一、被害者は、私なんですから。それに、これでもう、後を尾けられることがないんだと思うと、嬉しくてしょうがなかったんです。
 その時は。




 

 探偵、迷流藍花めいるらんかの朝は遅い。
 太陽もすっかり空の上に落ち着いた頃、助手である中華娘、美鈴メイリンの、朝御飯ね!と言う声に急き立てられるように目を覚ます。
 欧州風の寝間着を着て、ぼさぼさと寝癖のついた頭で、重い瞼を擦りながら階段をよろよろと下りてくる様は、とても東都に名を轟かす、快刀乱麻の名探偵、迷流藍花その人とは、夢にも思えそうにない。


「ほら、早く食べるね!」
 美鈴に椅子を引いてもらって、テーブルにつくと、目の前に置いてあるオレンジジュースを、一息に飲む。それでどうにか目の覚めてきた探偵は、横の席に置いてあった新聞を手に取った。


「ああーっ、御飯食べながら新聞読むのダメ、何度言ったら分かるか!」
 すかさず美鈴の罵声が飛ぶが、迷流はとっくに慣れっこになっているので、無視してトーストを手に取った。
「早く食べちゃうね、お昼なるよ」
 美鈴のこの台詞も、何時も通りの物である。


「美鈴・・・」
「何か?」
「何時も言ってるけど、パンに酢豚はどうかと思うんだけど・・・」
 美鈴は、やかましいね、と言って、トーストに酢豚を乗せて口に運んだ。と、その時、新聞に目を通していた迷流が、およ、と声を上げた。


「どうしたか?」
「うん、例の通り魔また出たみたいだよ。ほら」
 言って、迷流は新聞の見出しを指さした。そこには、

東都を騒がす連続通り魔、つひに五件目の殺人!

と、でかでかと書かれていた。
「・・・迷流様、私日本語そんなに読めないね」
 美鈴の言葉に、迷流は、ああ、ゴメンごめん、と頭を掻いた。そして新聞を読み上げる。


「ええと・・・、去る四月二十五日より始まりし此の事件は、五月に入つても三件を数え、つひに昨日十二日を以て、都合五件を数えることとなつた。昨夜の事件は、松尾二丁目の路地裏付近で発生し、男のくぐもつた悲鳴を聞きつけた近所の学生仲野慎二君(十八)によつて被害者、杜山寛(もりやまひろし)氏(二十八)が、下腹部より血を流して居る所を発見さるる。


 杜山氏は、駆けつけた救急隊によつて東都病院に運ばるるも、出血多量にて本日未明、死亡するに至る。事件発生当時、現場には人気が無く、また、杜山氏を刺した凶器がこれまでの事件と一致したため、東都大警察では、東都を騒がす通り魔の、新たなる犯罪と結論付け、目撃者を募ると共に、被害者の共通した特徴である。
 若い男性諸氏に、深夜の外出を自重するやうに勧告を行なつた。・・・ふーん、物騒だね」


「迷流様も一応若い男、気をつけるよろし」
「・・・、一応だけ余計だよ、美鈴」
 迷流は苦笑しながら、食後のコーヒーを口に運んだ。
「ごちそうさま」
「おそまつさまね」


 美鈴がテーブルの上を片づけ始めると、迷流は洗面場へと向かう。
「あっ、迷流様、寝間着は洗濯籠に入れて置くね!」
 その背中に美鈴の声が飛ぶ。世話女房のような口を利くな、と思って迷流は思わず苦笑した。


 顔を洗い終えると、迷流は自室に戻って、服を着替える。美鈴によってアイロンのかけられた、クリーム色のワイシャツを着て、その上に茶色のベストを羽織る。蝶ネクタイを結んだ後に、ベストと同系色のスラックスを履いて、最後に、トレードマークである、鼻眼鏡状のサングラスをかければ、東都の名探偵、迷流藍花の出来上がりである。


 階段を下りて事務所に戻ると、美鈴は洗濯をしているようで不在だった。所在なげに迷流は、自分のデスクに腰掛けて、読みかけだった、「歎異抄たんにしょう」を手に取った。


 「歎異抄」は、一種の総合雑誌である。それこそ時事ネタから、最新の科学技術、人気作家の小説まで何でも載っている。今号には、以前迷流が事件を解決してあげたことのある作家、花葉田土呂井はなはだとろいの新連載、「ヴィッテンヘルムのソーセージ」が載っていた。
 ほう、と呟いて、迷流はそのページを開いてみる。ざっと流し読みしてみた感じでは伝説のソーセージを求めて、ドネリアへと旅に出る話のようだった。なんのこっちゃ、と迷流は雑誌を閉じる。丁度その時、美鈴が洗濯を終えて、事務所に戻ってきた。美鈴は、迷流の手の中の「歎異抄」に気づくと言った。


「あっ、新しい「歎異抄」ね!私「ヴィッテンヘルムのソーセージ」楽しみにしていたのね!迷流様、後で読んで聞かせてね!」
「・・・・・・」
 結局何も依頼の来なかったその日の午後は、迷流は、美鈴に歎異抄を読んであげながら過ごすことになった。


 日も暮れかけた頃、美鈴がそろそろ夕食の準備をしようと席を立ったとき、コンコン、と小気味の良い音でドアーがノックされた。
「はーい、こちらは迷流探偵社、殺人誘拐身の上相談・・・」
 美鈴の声が途中で止まる。


「失礼するよ、美鈴ちゃん、今日も可愛いね」
「あいや、ヨッシー!良く来たね!」
 ドアーの陰に立っていたのは、髪の毛を丁寧にセットした、品のいい中年の紳士だった。


「中山警部・・・」
「やあ、迷流君、今日は」
 紳士は、東都大警察の殺人課の警部である、中山義之輔であった。迷流は過去に幾度も、中山警部に協力して、様々な難事件を解決したことがあった。


 美鈴の案内で、中山警部はソファーに腰掛ける。
「どうしたんですか?中山警部、ははあ・・・さては東都を騒がす連続通り魔の件ですね」
 迷流の言葉を聞いて、中山警部は苦笑した。
「ははは、迷流君、残念だがそう言った普通の事件まで君に頼んでいたら、それこそ我々は商売あがったりだよ」
「じゃあ何です?」
 中山警部は、ううむ、と腕を組んだ。ひとしきり唸った後で、意を決したように口を開く。


「時に迷流君、君は、一度殺した人間が生き返るなんて言うことがあると思うかね?」
「何です?突然?」
 迷流は面食らった。いやね・・・、と中山警部は良く手入れされた口髭を弄った。


「死人に後を尾けられてるって言う御婦人が、署の方にやって来て居るんだよ」
「死人に?」
 うむ、と、中山警部は神妙な顔で頷いてみせる。
「その御婦人が言うには、丁度今から四ヶ月程前から、誰かに後を尾けられ始めて、それで、恐ろしくなって、今から一ヶ月ほど前に、その尾けて来ていた男を、殺したんだそうだ。包丁で、こう、ブスーッと」
「はいはい」


「ところがな、また暫くすると殺した筈の男が、また後を尾けて来るんだそうだ」
「そんな、まさか」
「だろう?本当にそんな事があったら、俺だって肝を冷やすぜ。・・・で、それ以来男は、何度殺しても、すぐにまた後を尾けて来るんだとさ」
 考え込んでしまった迷流に向かって、妄想だろう?と、中山警部は言った。


「それに、ただ尾けて来るだけの男って言うのもよく分からないしな」
 いいえ、と迷流は呟く。
「確か、欧州の方では、そう言った後をつけ回す連中の事を、ストーカーと呼んで犯罪者の一種に数えると聞いたことがあります」
「そうなのか?でも、そのストーカーとか言う連中は殺しても殺しても蘇る化け物じゃないんだろ?」
「それは確かにそうですが・・・ところで、その御婦人は今何処に?」
 中山警部は、ああ、と顎を撫でた。


「さっきまでは署にいたが、多分今頃は、うちの若いのが尾行しながら家に帰っているんじゃないかな・・・どうだい、迷流君、この事件引き受けてくれるかな」
「どうするね、迷流様」
 迷流は、力強く頷くと言った。
「分かりました。その猟奇、読み解きましょう」

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