To Heart short story vol.1: |
いささか ねむい
穏やかな光が木々の間から漏れ射してくる。初夏を思わせるような心地よい風が吹き渡り、浜辺あたりでのんびりと過ごしたくなる様なうららかな日。
俺と葵ちゃんはいつもの神社の境内で、対坂下戦に向けて練習を行っていた・・・のは、さっきまでの話。
「どうしよう・・・」
泣きそうな顔で葵ちゃんがそう呟いた。
話は十分ほど前まで遡る。
日に日にハードさを増していく葵ちゃんの練習に危惧を抱いていた俺が、少しは休むように葵ちゃんに言った直後、筋肉の疲労が限界に来ていた葵ちゃんは、足の力が抜けて、地べたに倒れ込んだ。
それだけなら良かったのかも知れないが、運の悪いことに、葵ちゃんは倒れるときに足を捻って捻挫をしてしまっていた。
かなり強く捻ってしまったらしく、葵ちゃんの顔が痛みにゆがんでいる。
「大丈夫か!?葵ちゃん。」
駆け寄った俺に向かって、葵ちゃんはゆっくりと顔を上げると、
「先輩・・・」
消え入りそうな声でそう言った。大きな目には涙が浮かんでいる。
「どうしよう・・・」
そして時間軸は今に至る。
俺は、葵ちゃんに向けて出来るだけ明るい声を作ると言った。
「あ、葵ちゃん、そんなに深刻になる事なんて無いって、坂下との試合の日取りだってまだ決まってないんだろう?取り敢えず足の治療をして・・・」
「日取り、決まったんです・・・」
「えっ?」
葵ちゃんは青くなった唇を震わせながらそう言った。
「日取りって、坂下との試合のか!?」
はい、と葵ちゃんは小さく頷く。
「今まで黙っていて申し訳ありませんでした。実は昨日、好恵さんから電話があって、試合の日が今週の日曜日に。」
「日曜日って・・・もう四日しかないじゃないか!」
はい、と葵ちゃんはもう一度深刻な顔で頷いた。そして、
「こうしちゃいられません・・・!」
無謀にも立ち上がろうとする。が、
「ああっ!」
予想通りと言うべきか、葵ちゃんは再び足を押さえながら蹲った。全くこの一本気な女の子は・・・俺は少し強い口調になって葵ちゃんを咎めた。
「ダメだよ、葵ちゃん。怪我した足で戦って余計怪我を悪化させたら元も子も無いぜ?坂下だって鬼じゃないんだ、事情を話せば解ってくれるさ。試合は葵ちゃんの足が完治してからと言う事で。」
しかし、
「好恵さんは、鬼です。」
葵ちゃんは小刻みに体を震わせながらそう言った。顔色が悪い。
って、そ、そうなのか?
これって「To Heart」であって、「痕」ではなかったと思ったけど・・・
まあ、それはともかく、確かにあの坂下なら、事実をありのままに伝えても、怖じ気づいたのね、葵!とか、ごっこ遊びの練習で怪我をするなんて、所詮、それが貴方の実力よ!とか言いそうな気はするな。
「せんぱい・・・」
おっと、いつの間にか葵ちゃんが泣きそうな上目遣いで俺の顔を見上げている。よし、ここは男藤田浩之、可愛い後輩のために一肌脱ぐとするか。
「葵ちゃん。」
俺は葵ちゃんの汗で濡れた細い肩にそっと手を置いた。
「俺が何とか方法を探してくるよ。それから、湿布か何かも保健室から貰ってくる。いいかい、葵ちゃん、俺を信じてここで大人しく待っているんだぜ。くれぐれもさっきみたいな無茶はしないこと、いいね?」
葵ちゃんは少し戸惑いながらも、はい!と元気良く返事をしてにっこりと微笑んで見せた。・・・くうう〜可愛ええ〜。
俺は格好良く、じゃ、と手を振って取り敢えず学校の方に走り出した。
が、
葵ちゃんには俺が何とかする、と宣言したものの、俺の頭の中にはまだ具体的な打開策は何一つとして思い浮かんでいなかったのだった。
参ったなあ・・・坂下の奴は葵ちゃん本人が試合をしないことには納得しないだろうし、「俺だってこのクラブの一員だ!」とか言ってこの俺が出たところで返り討ちにあうのは目に見えているしなあ・・・
そんな事を考えている俺の頭の中に、いつの間にか三つの選択肢が浮かんでいた。
1:先輩に頼んで魔法の力で何とかして貰う。
2:志保の奴のネットワークを活用して打開策を見出す。
3:現実逃避してマルチをなでなでしに行く。
さて、どれを選んだものか。と、そう考えている俺に向かって、
「あ!ひろゆきさーん!」
と嬉しそうな可愛い声が投げかけられる。声の方をした方を見ると、満面の笑顔を浮かべたマルチが竹箒片手にとてとてと、こっちに向かって駆け寄ってくるところだった。
うおっ!俺ってば何時の間に3番を選んでいるんだ!?
しかしそんな一人つっこみはすぐに止めて、俺は駆け寄ってきたマルチを取り敢えずなでなでする。
「はうっ!はわわわっ!ひ、浩之さん・・・」
マルチは突然のことに驚きながらも、ほっぺたをぽーっと赤く染めている。うひゃーっ!かわええーーっ!俺は更になでなでを続ける。
ブレーカーが落ちそうになったところで、一旦手を休めて様子をうかがう。そしてまたなでなで。
緩急自在。
うん、俺のマルチなでなでスキルは確実にレベルアップしているぜっ!
と、そこで俺はぽーっとなっているマルチの顔を見て、ふと、あることに気がついた。
「マルチ。」
「はい、なんでしょう?」
ぽーっとなっていたマルチは一瞬反応が遅れて、あたふたとした。それがまた可愛らしい。
しかし、今はそんな感慨に浸っている場合ではない。俺は、こほん、と咳払いをしてからマルチに尋ねた。
「なあマルチ、お前、人の役に立つことが好きだったよな?」
マルチは、はい!と元気良く返事をして胸の辺りで手を合わせた。
「もちろんです!人間の方々のお役に立つことが、私の使命ですから!」
「そっか、じゃあ、ちょっとばかり役に立ってくれないかな。俺と・・・俺のダチんために。」
「はい、浩之さんの頼みとあらば喜んで!」
「よーしよーし。」
俺はマルチの頭もう一度サッと撫でて、それから保健室に行って湿布と包帯をもらってきた。
はわわっ!浩之さんお怪我なさっているんですか?と思いっきり勘違いしているマルチを連れて、俺は再び神社へと舞い戻る。
葵ちゃんは俺の言いつけ通りに膝を抱えたまま、ちょこんと座っていた。その姿を見て俺は、ますます自分が思いついたアイディアへの確信を深めた。
「葵ちゃん。」
深刻な表情のまま宙の一点を見据えていた葵ちゃんは、俺がそう呼びかけるまで俺達が来たことに気づいていなかったようだった。
「せんぱい・・・」
葵ちゃんはゆっくりと目を上げて俺を見て、そして俺の後ろのマルチに気がついて不思議そうな顔をした。
「葵ちゃんも知ってるだろ?こいつは、例の来栖川エレクトロニクスが開発した最新型のメイドロボのマルチ。・・・マルチ、この子は、マルチと同じ一年生の葵ちゃんだ。俺と同じクラブのメンバーでもある。」
「あ、は、初めまして。HMX−12、マルチと申します。」
「松原葵です、宜しくお願いします。」
二人はぺこり、とお辞儀をした。そしてマルチは、
「あ、葵さんお怪我をなさっているんですね!たたた、大変ですぅー。」
葵ちゃんの足を見るとそう言って慌てた。
「慌てるなよ、マルチ。だから湿布と包帯を持ってきたんだって。」
言いながら、俺は葵ちゃんの足に湿布を貼って、少しきつめに包帯を巻いてやる。
「一応テーピングの替わりみたいなもんだけどな、どうだ、葵ちゃん、立てそうか?」
「あ、はい・・・なんとか。」
葵ちゃんはゆっくりと立ち上がってそう言った。
「よしよし、もう少し今は休んでおくんだ。」
俺はそう言って葵ちゃんをもう一度座らせた。
「あのお、先輩?」
漸く落ち着いたらしい葵ちゃんは、上目使いに俺を見つめながら、躊躇いがちに言葉を発した。
「あのお、坂下さんとの試合は・・・?」
続けてマルチも、
「はわっ!そう言えば浩之さん、私への頼みって何なんでしょうか?」
そう尋ねてくる。俺は、ふっふっふ、と不敵に笑った(何か志保みたいだな)。そして、「まだ気づかないのか、二人とも。」
挑発的にそう言ってみる。
「はあ・・・?」
不思議そうにマルチと葵ちゃんは顔を見合わせている。
「マルチ。」
呼ばれてはい、とこっちを向いたマルチに向かって俺は、
「その耳の飾りを取ってくれ。」
と言った。マルチは、はわわっ!と驚いて耳を押さえた。
「だ、ダメですよ!開発者の方々からもここはみだりに人様に見せてはいけないところだと・・・」
「頼む!マルチ!ここにはさ、ほら、俺と葵ちゃんの二人しかいないわけだし、な。俺とマルチの仲じゃないかー。」
マルチはあうう、と声を漏らした後で、
「わ・・・解りました。」
観念したように言うと、耳の飾り(センサーだっけ?)を外した。中から可愛らしい耳が姿をのぞかせる。
「よし、そこで二人とも向き合って見ろよ。」
「え・・・?」
「はえ・・・?」
訝しげな表情のまま向き合う二人。二人ともぱちぱちと大きな目を瞬いている。
やがて・・・
「あっ!」
葵ちゃんが何かに気づいたように声をあげた。一方のマルチはまだほえー、とした表情で首を傾げている。
「先輩・・・まさか・・・?」
「ふっふっふっ、葵ちゃん、そのまさかだよ。俺は気づいたんだ!葵ちゃんとマルチははっきり言って似ている!そっくりだ!」
「ああっ!やっぱり!」
葵ちゃんは驚いた顔をして、胸の辺りにグーにした両手を当てた。
「確かにマルチの方がちょっとサイズが小さいが、顔立ちとかはそっくりだ!To
Heartビジュアルファンブックの書き下ろしイラストのマルチの電源が入っていないのも、パターン集で葵ちゃんの両手を胸に当てる仕草が載っていないのも、この二人にどうにかして違いを持たせようとしているためだと俺は見た!」
「あのお・・・先輩?何をおっしゃっているんですか?」
おっといかんいかん、ちいとばかり暴走したようだ。
「コホン・・・まあ、何はともあれ、マルチに葵ちゃんの身代わりになって貰おうと思うわけだ。」
「ええっ!そ、そんなの無理ですぅ〜」
漸く話の方向性を理解したらしいマルチが、突然可愛い叫び声をあげた。
「わ、わた、私、葵さんほど可愛くありませえ〜ん!」
「そ、そんなこと無いよ、マルチちゃん!マルチちゃんの方が可愛いよ!」
・・・何か話の論点とずれたところで二人の女の子が譲り合っている。まあ、可愛い光景だから良いけど。
「はいはい、二人とも譲り合いはそこまで。で、どう思う?このアイディア?」
俺が尋ねると、葵ちゃんがまず、目を伏せた。
「あのお・・・先輩。お気持ちは嬉しいんですが、やっぱり私自身が対戦しないと、坂下さんに失礼に当たると思うんです。」
俺はもっともらしく頷いた。
「ふむ、成程。確かに葵ちゃんの言う事は正論だ、それは間違いない。だが、今はこのクラブの、ひいては葵ちゃんのエクストリームへの情熱の存続が懸かっているんだ。多少無理をしてでも勝たなくちゃいけない。もし、葵ちゃんの気持ちがそれでもおさまらないようだったら、後日怪我が治ってから事情を説明して再戦を申し込めばいい。」
「でもせんぱい・・・」
「あのお・・・」
まだ納得がいっていない様子の葵ちゃんの隣で、マルチが躊躇いがちに尋ねてきた。
「あのお・・・私、葵さんの身代わりになって何をすればいいのでしょうか?」
「おお、そうだったな、マルチには説明がまだだった。マルチ、葵ちゃんの代わりに試合をしてくれ。」
「しあい・・・ですか?」
マルチは可愛らしく小首を傾げた。
「そう、試合だ。葵ちゃんの代わりに、空手部の坂下と言う奴を倒してくれ。」
「えっ!?えええええーっ!!」
マルチは大きな目を更に大きく見開きながら叫んだ。
「そ、そそそそそ、そんな!わ、わた、私無理です!出来ませえ〜ん!」
そしておたおたと両手足をばたつかせる。
「か、空手の試合と言ったら、相手の方を殴ったり蹴ったりしなくてはいけないんですよね?そ、そんな事無理です!わ、私出来ませえ〜ん!」
ふむ、「人間に決して危害を加えてはいけない」、確かロボット三原則のうちの一つだったか?・・・いや、それ以前にマルチの優しい性格じゃあ、人を殴るのは抵抗があるのかもな。
俺は、コホン、と咳払いをした。
「大丈夫だ、マルチ。格闘家、っていう奴はな、相手が強ければ強いほど嬉しくなる、つまり、殴られれば殴られるだけ嬉しくなる連中なんだ!」
「あのお・・・先輩、それは少し違うような・・・」
葵ちゃんが、困ったような笑みを浮かべながらそう言った。しかし、マルチを説得する時は少しぐらい大袈裟に言った方が良いのだ。
「それにな、マルチ。」
今度は少し物憂げな瞳で、明日の方向(どの辺りだ?)を見上げた。
「坂下との試合には、葵ちゃんの夢と俺の夢、二人分の夢がかかっているんだ。」
そこでマルチに視線を落とす。
「マルチ、俺達の夢を守ってくれないか?」
「ゆめ・・・」
マルチはじーっと俺の顔を覗き込む。
そして、決意を秘めたようなりりしい顔になった。
「わかりましたっ!他ならぬ浩之さんの頼みですし、私!頑張ってみます!!」
「そうか、マルチ!やってくれるか!」
「ありがとう!マルチちゃん!」
俺はマルチの頭を撫でて、葵ちゃんはマルチの手を取った。
そして五分後。
「え、ええーいっ!」
ズダン。
サンドバッグに向けて、へろへろーっ、としたキックを出したマルチは、足を滑らして転倒した。
「あう〜っ・・・」
そしてそのままブレーカーが落ちて気を失ってしまう。
「マ、マルチちゃん!」
葵ちゃんが慌てて駆け寄る。
うーん。
マルチのきわめて低い運動性能。
・・・一番肝心な問題を忘れていたな、俺。