last up date 2005.02.11

27-10
ジョーク

 こういう言い方をすると私が常日頃絶望しているようなので抵抗があるが、私に希望をもたらす出版物は2つある。
 1つは新聞である。もう1つはジョーク集である。


 実はこの2つ、相反する存在のように思われるかもしれんが、似通っている面がある。それは、読むのにある程度の知的レベルを要求されるということだ。共通する基盤が必要だと言い換えてもよい。このことが私に何をもたらすかというと、新聞であれジョーク集であれ、それを理解しようとし、それなりに理解することによって、自分がある程度の知的レベルにあるかのような意識をもたらす。そして世の中には、同じようなものを好んで読んで理解し、共通の認識めいた基盤を持つ人間が存在するであろうことは、大きな希望である。大学を出て以来ここ3年間、新聞もジョークも理解できないドン百姓しか周囲にいないことには失望しきっているので。
 メッセで大学時代の後輩PGO氏(仮名)とも話したが、くだらん下ネタだろうと有り触れた世間話であろうと、バカはいかなるネタを題材としてもろくなことを話せない。裏を返すと頭のキレる奴は、下ネタだろうと世間話だろうと、ジョークもキレるということだ。何を題材にしようとも、笑いのツボとでもいうべき共通感覚・共通認識には、歴然とした階級格差が存在するものらしい。


 別にジョークを飛ばしたいわけではないけれども、他愛もない日常会話に喜びを見出したいとは常々思っていますよ。予備校時代は口を開けることさえそうそうなかったが、高校時代も大学時代も優れた見識と型破りな発想を持つ連中に囲まれて、会話することが楽しくて仕方がなかった。まあ別に、学生が茶店や学食に溜まってする談笑のような贅沢は望まない。インテリ同士のcoolなジョークを求めているわけではない。だけれども、せめて日経新聞を読んで理解できる程度の人間と働きたいとは常々思っています。まして、意味を為さない奇声を上げたり、生殖器の俗称を連呼したり、一度笑いを取った単語を何百回と繰り返すしか脳のない、最悪のジョークセンスのドン百姓とは、願わくば接したくないものではあります。


27-09
固有名詞を覚える

 14-09で、

ベレッタが出した、.22sとか.25ACPとかシケた弾薬を使う小型拳銃は、
「ミンクス(Minx)」

白ロシアの首都は、
「ミンスク(Minsk、Минск)」

と書いたが、こうした固有名詞は単体ではなかなか覚えられない。考えれば区別できても、無意識に口をついて出るようにするためには訓練がいる。そのために次のような文章を作ってみた。

I shot John with Minx.
(私はジョンをミンクスで撃った)
Антон живет в Минске лет тридцать.
(アントンはミンスクにだいたい30年住んでいる)

 例文の暗記・暗唱を何回かやれば、だいたいのことは記憶と口と耳に定着する。


27-08Ж
危険運転事故は二級殺人だ。

 千葉で、無免許の男が日本酒を飲み、速度超過で人を4人轢き殺し、しかも逃走する事件があった。今日のNHK19時のニュースでもトップ扱い。極めて重大かつ悪質な交通事故だ。近年、悪質交通違反・危険運転による事故に対して、厳罰化が進んでいる。このクズ野郎は長期に渡って交通刑務所へぶち込まれ、民事でも人生が破滅するぐらいのカネを取られることであろう。しかしそれでも、突然何の前触れもなく無辜の平凡な人々を殺した罪は決して消えない。死者の無念も、遺族の悲しみや生活の支障も、負傷者の身体の不自由も、永久に解消されることはない。


 重過失による交通事故と聞くと、私は札幌支社時代のことを思い出さずには居られない。
 私が入社した某社は、業務で少なからず自動車を運転する。そのため、東京での新人研修に於いては、交通安全指導が徹底して行われた。指導員は私を含めた新人達に、運転中に亡くなった殉職者の写真を見せ、交通刑務所服役者の懺悔を読ませ、そして新人1人1人に意見を述べさせた。
 だが、北海道の連中は頭がおかしいと思わざるを得なかった。研修生達が1人1人が拙いまでも、「気を付けなければいけないと思いました」「事故は悲惨なことです。安全運転をしようと思いました」のような意見・感想を口にした。だが、北海道の連中はとんでもないことを口にした。「気を付けなければならないとかそういうのじゃない」「安全運転とかそういうのじゃない」・・・つまり前の人間の言ったことを否定しただけである。「安全運転とかそう言うのではなく」もっと合理的な手法があるのならば教えて欲しいぐらいだ。が、自分の意見は何もナシ。他者を否定すれば自分がすばらしいことを言った気になれるんだろうけど、もっと自分が何を言っているのか把握しろ。


 そして東京から戻り、札幌支社にて現場研修を始めると、度肝を抜かれることの連続だった。
 「安全運転とかそういうのじゃない」とか称していた同期が、大酒飲んでから自分の安車を転がしてきて、「送ってやる」などと称しやがる。そうか、「安全運転とかそういうのじゃない」という中身は、違反をしても危険運転をしても、自分だけは大丈夫だという妄想を意味していたのか。それとも、事故を起こすのはよほど運の悪いバカ野郎で、全ては運だという意味だったのか。
 飲酒運転というと、北海道のようなИНКのドン百姓は甘く見がちだが、どんな手練れでも今日の千葉のような大惨事を引き起こしかねない重犯罪である。さらには、自分がメシを食ってる会社の社会的責任と信用をも失墜させかねないのに、自分自身の行いについても他の社員の行いについてもまったく問題意識を持っていない。


 驚くべきことは次々と起こった。
 会社の飲み会にほぼ全員がマイカーで現れ、そして車で来た全員がそのまま車で帰った。酒を飲まなかった奴は1人もいない。これは確認している。会社の飲み会と言っても、ただの同僚有志の娯楽ではなくて、会社の経費を落として、会社名で予約をとって、遠方の営業所の人々をも招待しての、公的な行事である。誰がどこに車を出して、誰をどう送迎するかまで事前に計画しての行事である。
 繰り返して言うが、これは地元のぼんくら青年の寄り合いでも、失う者のないやくざ者の集会でもない。一地方の小さな寄り合いといえども、社会的責任のある大企業の公的集会である。これで大事故でも起こしたものならば、「**社が恒常的に組織的に飲酒運転をしていた」としてかなりまずいことになったのは間違いがない。こういうことやると世論は怒るはずである。


 さらに驚いたのは、酩酊しまくって足腰立たなくなった主任が、そのまま車で帰りやがったことだ。
 しかも本人は、
「運転している記憶が断片的にしかない」
「高速まで行けば酔っていても大丈夫だ」
「酔ってよくわかんねーから、1速の次3速入れて、そして5速入れてアクセルベタ踏みした」
なんてことを抜かしやがる。さらに聞いている周囲の人間も、ただの笑い話としてしかこれを捉えていない。これはもう懲戒免職ものだ。いや、最初に書いた同期の酒気帯び運転とて、摘発されて書類に残れば、依願退職にせざるを得ない。実際、程度が甚だしければスピード違反でさえ依願退職ものだ。つまりこいつらにとっては、摘発されるかされないかだけが重大事であって、しかも摘発されるのは運が悪いだけという認識しかないようである。さらに言えば、事故を起こすなどという発想そのものが存在しないらしい。
 この主任は、会社の徽章や制服のまま幼稚な遊びをしたり、だらけたりしているバカな連中に常日頃説教していた人物だ。「お前らがそんなだらしないことしているのを誰かが見て、**社って大したことねーなと思ったらどうなる。お客さんは別会社を選んで売り上げが下がり、給料が下がる。車や家のローンも払えなくなる。お前は会社のみんなにその責任をとれるのか!」と叱責していた。私の同期は、どうしようもなく怠惰でマヌケでやる気のない連中だった。そんな連中に気合いを入れるこの主任には私はそれなりに期待していたのだが、酩酊運転かよ。酩酊運転で重大事故を起こしたら、バカな同期の悪ふざけなんかよりも遥かに売り上げに響くのでは・・・。主任には本当に失望した。


 もっと驚いたことは、北海道トップの総支社長でさえ飲酒運転の常習犯だったということだ。ちょっとビールを2〜3杯ひっかけるような生やさしいものではない。本当にわけわかんねー酩酊状態でだ。総支社長は、朝まで酒を飲んで酔っぱらって会社に来て、出入りの清掃業者をぶん殴ることなど日常茶飯事のとんでもない人物。その酩酊状態で運転をし、しかも会社周辺の道路に自分の高級車を滅茶苦茶な路駐で放置することも日常茶飯事。総支社長付の人間は、この車を取ってくることが日常の仕事だった。
 この総支社長は、学校を出てこの会社に就職して上り詰めたわけでも、ヘッドハンティングされて中途入社したわけでもない。この会社とは全然関係のないところで高い地位にいて、突然2〜3年間だけ高給を取るためにやってきて重職につき、高額な退職金をせしめるだけの人間である。別に、高額な給料も退職金も、会社が某所と関係を繋ぐためならば高い買い物ではない。けれどもせめて、大人しくしていてくれないか。せめてこの会社で重職にあるうちは、酩酊運転しないでくれないか。この会社の社会的役割と、この人物の前職を考えると、そう願わないではいられなかった。
 この堕落した北海道総支社と札幌支社から離れられてせいせいするわい。


 危険運転・重過失の悪質ドライバーには、殺人罪並の厳罰を加えることを。
 そんな人間の存在を黙認する会社には、司直による責任追及と世論による裁きを。
 悲惨な事故を見聞きするたびに、そう願わずにいられない。
 啓蒙なんてバカなドライバーにはもはや無用。
 言ってわからない人間に必要なのは、厳罰である。 


27-07
liberty artsというわけではないが

 私は、他者の努力や学習に対して「そんなことをして何になる」「そんなことをしてもカネにはならない」としか言えない人間を軽蔑している。即座にメシに直結する技能なる便利なものなどなかなかないし、あったところで一生その技能で食っていけるかどうかはかなり疑問だ。そもそも、何かやるのならばすべてカネにならないとならないという発想そのものが、貧しすぎる。
 さらに言えば、いくら機械の整備や帳簿の付け方を知っていても、liberty artsの欠片もない人間は、力のある人間に人脈を広げることにも自分で商売を広げることにも限界がある。社会や人文への造詣がない人間は、程度が低いと見なされるからだ。また、短期的には役に立たないように見える基礎的な知識の蓄積があってはじめて、仕事上の判断が出来ることもある。科学よりも技術を、疑問よりも結論を、教養よりも雑学を求める人間は、底が知れている。
 だが、安直な短期的な実用技能とも漠然とした教養とも別に、いくつかの技能には触れておいた方がいいのではないか、という気はする。


 多くの学部生は、多少なりとも「将来何が役に立つか」について考えるだろう。漠然と「どこかで勤めるだろう」と思っているのならば、実際行動に移すかどうか友人達と話し合うかどうかは別として、多少は「何かしなければ」「何がいいのだろうか」と焦ることもあるはずだ。
 そして結論として出される例で有り触れているのは、英語や北京語といった語学、コンピュータ/ネットワーク技術、簿記会計だ。今も私はときどき母校の大学図書館に足を伸ばすが、英和辞典や中日辞典片手に翻訳をしている学生や、簿記検定の参考書を広げている学生が目に付く。法律書を開いている学生もここそこに見るが、それは法曹を志す学生の多い我が大学特有の事象だろう。さらに、後輩の中にはコンピュータ関係の資格を志している者、実際にSEやネットワーク技術者になった者も少なからず存在する。


 実際問題として何が役に立つのかは、漠然としすぎていてよくわからない。学生時代に苦労して勉強しても、就職した会社ではまったく別分野のセクションに配属することになるかもしれない。学んだことを評価されて専門的な部署に配属されても、待遇がよくないかもしれないし、やり甲斐を覚えないかも知れない。技術革新や法令の変化によって、資格が意味をなくすこともあるかもしれない。「勤めるのに有利な資格・学習」を論ずるのは難しい。
 ただ私が思うに、語学、経理、コンピュータに関しては、少しは出来た方がよかろう。これは高度な専門性を鍛え上げることも、資格を取得することも意味しない。通訳やSEのような専門的職業につく為でもない。いかなる場所に於いていかなる仕事をするに当たっても、知っていると役に立つこともあるし、知らないと困ることもある。もはやデファクトスタンダードなコミュニケーション・ツールとなった英語も、カネを使っている以上必ず必要な経理も、どこに於いても必須なコンピュータも、もはやかつては特殊技能だった自動車運転技能のようなものだ。プロドライバーや整備士のようなマネはできなくとも、ちょっとカギを渡されて運転する程度のことを出来ないと、生活でも仕事でも支障を来す。英語・経理・コンピュータも、素人の運転程度には出来た方がいいのではなかろうか。


 コンピュータはとりあえず、表計算、ワープロ、ネットがきちんと出来て、ついでにセキュリティ意識があればまあいい。それ以上のことは専門職がやればいいことだ。英語は、最低限突然英語で電話がかかってきたり英文の書類が回ってきても、最低限の対処が出来ればそれでいい。より詳細なことは、職業的通訳や翻訳者に依存すればいい。そして経理だが・・・もちろん税理士公認会計士のようなことはそうそう簡単に出来るわけもない。だけれども、最低限伝票や帳簿の基本的な書き方と読み方は、いかなるセクションにいても、それを出来ないと困る場面があるのではなかろうか。
 私にとっての課題は、経理である。B/S, P/Lも読めない人間は、財政状態を認識することもできない。だけれども私にはほとんど知識がない。こればかりは、時間をみて基礎を叩いておきたいものである。 


27-06
考えずにしゃべりたいロシア語

Сам смотри в словаре!
(自分で辞書引け)
Я совсем не сказал так!
(俺はまったくそんなことは言っていない)
Почему ты мешаешь мне японским языком!?
(なんでお前は日本語で俺の邪魔をするんだ)
Мне совсем не нужно твое мнение!
(お前の意見は必要ない)
Почему ты разговариваешь по мобильному телефону на уроке?
(何故お前は授業中に携帯電話で話すんだ)
Это не твой частный урок!
(これはお前の個人授業ではない)
Сначала посмотри в словаре,потом спрашивай у преподавателя вопрос!
(まず辞書を引け、それから講師に質問しろ)

 考える必要もない簡単な表現だが、必要なときには瞬時に口をついて出せるようにしたいものである。まだまだスムーズではない。


27-05
時価総額515億USドル

 ネット検索で比類ない知名度を誇り、十数カ国語ですでに「googleする」という動詞が「googleでネット検索をかける」という意味で普及している米google社は、時価総額が515億USドルに達している。他分野の巨大企業と比較しても、これは凄まじい額だ。GMは200億ドル、SONYは350億ドルだ。
 社名に「.com」を付けただけで株価が上がり、猫も杓子もITっぽければそれで投資した時代は、2000年頃を頂点にして一気に崩壊した。だが、今やネット企業が収益力に裏付けられた評価を受けて、投資を受ける時代になっている。googleが515億ドル、Yahooが484億ドルという時価総額は、今や確かな実態をもっている。2005年はハードウェア逆風の時代と予測されるが、ハードへの依存度が低いネット企業は今年も成長を続けそうだ。


 ネット企業のことを聞くといつも思うのは、私が大学5年生になったばかりの頃のことだ。就職活動をしているときに、4年生の後輩と企業の話をしていたら、大学に入って1ヶ月かそこらの1年生が割り込んできた。重工業分野について話していたら、「これからは鉄鋼とか造船なんてダメですよ。これからはITの時代ですよ」と得意げな顔をして言ってきたのだ。
 このときは2001年の4月後半か5月はじめ。ITバブル崩壊なんてとっくに起こっていた頃だ。そんな時期に、「これからはIT」などという脳天気なことを言ったのが、ただ大学に入って調子こいているガキだったのならば、大して気にもしなかった。問題は彼が、底なしの金持ちの息子で、「帝王学」の一環と称して株なんぞをやっている奴だったことだ。


 ここの「走り書き」のどこかで、私は彼についてアホかと書いた。ITとやらのおかげで重工業はドラスティックに変革したこと。ITバブルが崩壊して、IT企業と称する新興企業は軒並み潰れたこと。いかに「ITの時代」とやらが来ようとも、他の会社がすべて潰れるわけでも、IT企業とやらだけが大儲けするわけでもないこと。これらを並べて、「これからはITの時代」というコトバを徹底的に叩いた。
 だが、今になって思う。もしかしたら彼は、私よりも先を読んでいたのではないかと。確かにタケノコのように生まれてきたIT企業の多くは潰れた。生き残っている会社でも、競争激しく安定感に欠けるきらいがある。入社してもそんなに安泰といった気はしない。しかしいくつかの企業は急成長を遂げ、昨年ストックオプション制度によってgoogle社員は実質平均8800万円ものボーナスを得た。こうした名実共に世界に冠たる大企業となったネット企業に入れば、給与でもやり甲斐でも、相当なものがあるだろう(もっともgoogle社員の平均睡眠時間は4時間とも言われ、入社したところで幸福な日々を送れるかはわからんが)。


 もちろん私やこのとき話していた4年生の後輩には英語力も技能もコネもなく、巨大ネット企業に入られるわけもなかった。そこは所詮、大学入って一ヶ月の18〜19のガキなので、就職活動についてまでは考えが回らなかったのだろう。いや、就職活動をする必要さえない彼にとっては、望めばどこでも入られるという意識があったのかもしれない。だけれども、そうした簡単な求職認識とは違ってIT企業に対しては、ITバブル崩壊を克服して収益力に裏打ちされた急成長を遂げるものも現れる、と彼は見ていたのかもしれない。彼の「これからはITの時代だ」というコトバは、脳天気なIT礼賛なんかではなかったのかもしれない。
 ふとそんなことを思ったわけだ。いや、ちょっと思っただけ。十中八九、そんなことはないと思うけど。


27-04
性的拷問も民間委託

 キューバのグアンタナモ米軍基地と言えば、根拠も明らかにされなずに「テロ容疑者」とされた人々が、弁護士との接見もないまま、法律に基づかない無期限拘留をされていることで知られている。2005.01.28付の読売新聞に依ると、このグアンタナモ基地に於いて、イスラム教徒への性的拷問が行われているらしい。


 性的拷問と言っても、加虐嗜好者向けポルノのようなことが行われているわけではない。同紙によると、女性取調官が収容者に自分の胸をこすりつけたり、経血(に見立てたインク)を収容者に塗りつけたり、さらにはミニスカート姿で尋問するなどしているという。
 性的に辱めていることには変わりがないが、自慰行為や同性愛行為を強要したり、女性に対して強姦を行うような、アブグレイブ刑務所に於ける陵辱とはまた別種の拷問だ。性的に堕落したアメリカ人や日本人には、このグアンタナモの拷問は滑稽に思えるかも知れないが、これはモスリムの淫らなことへの拒否感を利用した、ひどく悪辣な行為と言える。


 私が注目したのは、米軍の悪辣さではない。戦争で拷問や陵辱が行われるのは、めずらしいことでもなんともない。それよりも目を引いたのは、「民間請負会社の女性がミニスカート姿で真夜中に尋問を行った」というくだりだ。
 冷戦後米国は、軍事費の軽減と退職した軍人の受け入れ先設置の為に、軍事業務の一部分を民間企業に開放した。軍隊はとにかくカネがかかる上、自己完結性と引き替えにその仕事の費用対効果は悪い。だからメシの配給や施設設営に(自己完結性を犠牲にして)民間企業を参入させるのは金銭的には効率的なことだ。途上国の内戦に介入して現地兵を訓練し、指揮をする役割をも担う軍事会社も、米国の国益に沿う為に活動していると聞いている。もちろん、こうした捕虜の管理・尋問にも民間が参入していても不思議ではないのだが・・・実際に報道で民間の関与を聞くと、やはり軍業をも民間が請け負う時代だと改めて思いますよ。


 とりあえず入手したが手を付けていないシンガーの「戦争請負会社」。これはそろそろ読み始めるべきかもしれんな。


27-03
不思議な認識方法

「ニコライがアントンのところへやって来た。ニコライは彼に尋ねた」
 この短い文章を読んで、「彼」って誰のことを指していると本気で疑問に思う人は、何を考えているのだろう。たったこれだけの文章で、「彼」がアントン以外の人物を指していることは極めて稀だ。そんなことは、よほど特殊な文章か風変わりな作家でない限りはまずありえない。もし周囲に他の誰かがいたり、ニコライが神や亡き友に問いかけたり、幻覚をみたりしているのだとしたら、わかりにくい示唆であれ隠喩であれ、それを示すような記述がある。だけれども、こんな単純な文でニコライとアントン以外の人間を想像するのは、妥当ではない。想像の翼を羽ばたかせるのは結構なことだが、少なくとも、初歩的な外国語の試験では、そんなことを求めるような複雑怪奇な問題はありえない。


 不思議なことはまだまだある。
「サーシャは兄の職場へやって来て言いました。『ヴィクトル・イヴァーナヴィチさん、貴方の研究の進展具合はいかがでしょうか。さぞかし貴方は人類の進歩のために偉大なるお仕事をなさっていることでしょう』」
 この文章で、弟のサーシャは腹を立てている。この文章を読んで、なぜサーシャが腹を立てているとわかるのか。それを説明せよ、という問題があった。これはもちろんロシア語なのだが、日本語で読んでもサーシャが怒っていることはわかるだろう。もちろんそれは、皮肉っぽい言い方をしているからだ。この短い文章からは、何故サーシャが怒っているのか、何故怒らなければならないのかはまるでわからない。ただ、怒っているであろうということが、口調からわかるだけである。


 ロシア語は、敬語と親しい言い方の区別が明確だ。家族で「貴方(вы)」と呼ぶことはあり得ない。兄弟でも親子でも孫とジジイとでも、тыと呼ぶ。тыは「君」と日本語訳されるのでちょっとしっくりこないが、家族でтыではなくвыと呼ぶのは、「俺とお前との間には距離があるんだ。お前は家族ではなく赤の他人だ」と示すことであり、悪意を示すことになる。さらに言えば、イヴァーナヴィチというのは名前でも姓でもなく、父称だ。名前+父称で呼ぶのは「貴方(вы)」を使うべき目上の他人であって、家族では普段は決して使わない。
 このようなロシア語の特徴を理解しているかどうかを問う問題が、試験で出されたわけだ。上記のような説明をすればマルを付けられる試験である。簡単に「兄弟なのにвыを使い、父称をつけて呼びかけているからサーシャが怒っているとわかる」と書けばそれでよい。しかしある人物は、どういうわけか次のような解答をした。
「サーシャは母親に寒い中、兄のところへスープを持っていくように命じられ、街を横断して兄の研究室までスープを持って歩かせられたことに腹を立てていた」。
 意味がわからない。


 この問題文には出典がある。私の語学学校で講義に使っていたテキストから、1行だけ抽出して出題されたのだ。確かにサーシャが怒っていた理由は、クソ寒い中に用を頼まれたことだ。しかし問題は、サーシャが何故怒ったかでもなければ、サーシャが何に怒っていたかでもない。何故、(出典の文章にはある前後関係ではなく)この1文を読んで「サーシャは怒っている」と判断できるのかを問われていたのだ。
 だけれどもこの解答をした人物は、自分はвыやтыのことも父称のこともわかっているのに、何故バツを付けたのかと講師に詰め寄った。自分を不当に扱っているとして講師を人格批判し、自分は学歴がないから差別されているなどとわめき立てた。自分が理解できないことは、すべて他者の悪意のせいにするのですか。


 私は彼の僻み根性と人格非難を看過できずに、彼に対して声を上げた。この問題はサーシャが怒った理由ではなく、何故サーシャが怒っていると読者がわかるか問うているのだということを。問題文のどこに「寒い中スープを持って行かされた」と書いているのかということを。出典の文全体ではなくて、問題に出された範囲で判断しなければならないということを。さらに、敬語や父称のことを理解しているのならば、なぜそれを書かないのかと。
 だが彼は私の言うことも理解できないようだった。「君は寒い中スープを持っていけと言われたらどう思う?腹が立つだろう!」「テキストではサーシャは母親に命じられたから腹が立ったんだろう」「俺は敬語も父称のことも理解しているのに何故バツを受けるのか」などと言い返してきた。彼の言に対して、彼が問題に答えていないことを、先生は彼が敬語のことを理解しているのかどうか書かないとわからないことを、私は丁寧に説明した。が、しまいには彼は、自分は学歴も学識経験もない人間だから所詮理解できないとして、いじけてしまった。
 この語学学校に通っている人間の多くは、彼と同じ高卒。他の人間は差別されていないし、この問題で得点を得ている。彼はこの事実をどう捉えているのだろうか。この問題に答えられないことも、不都合をすべて悪意や差別に帰結させてしまう精神も、とても不思議でならない。


 不思議なことは、試験以外の場面でも続く。
 私は大学院に行きたいと彼に話したので、彼は院生の知人と話して、様々な情報をもたらしてくれた。結果として彼の情報はまるで役に立たないものだったが、彼は私が院試への覚悟を決めたと知っているはずだ。時間をかけて話したので、試験を受けるのは2005年度であって2004年度ではないことも繰り返し聞かせたはずだ。なのに何故彼は、2004年度中に私に「院試はどうだった?」と聞いたのだろうか。もちろん受けるのは来年なので「受けていない」と私が応えると、何故「何だよ、受けてねえのかよ!」と吐き捨てたのだろうか。
 さらに言えば、私が今後の道筋を院と選択したことを歓迎したはずの彼が、なぜ突然国家公務員I種の募集要項を私に渡して、「受けるつもりはない」との言に対して「大丈夫だって」などと意味不明なことを言ったのだろうか。
 もっと別の機会では、「友人とどれぐらいの頻度で酒を飲むか」と聞かれて私が「たまにしか飲まないね」と答えたのに、何故彼はその直後に、第三者に「晴天は今まで一度も友人と酒を飲んだことがない」などと言うのであろうか。だから「たまに飲んでいる」と言っているし、今までも再三再四、「土日は友人を家に集めて飲んだ」「ロシアのウォッカを取り寄せて友人に飲ませた」と私は彼に話し、彼は私に話に反応を示したのに、何故「ただの一度も」などという副詞が出てくるのか!


 所詮彼は、人の話を聞いていない。文章を文字通りに読むこともできないし、筆者や話者が言わんとしていることを酌み取ろうという意思もない。あるのは、最初から持っているイメージとステレオタイプだけである。彼にとっては、すべてのことは最初から結論が出ている。他人と話をしても文を読んでも、相手の人格へのステレオタイプや言葉遣いから受け取るイメージで、書いてある内容や口にされる内容を自分勝手に解釈している。これはまさに、主観と客観を錯誤しているという意味に於いて、魔術的認識である。自分のイメージやステレオタイプ、まして期待や反感といった感情を疑うことも排除することもできず、妄想や感情のままに物事を理解している。
 まず最初に結論ありき。だからこそ、彼に言わせれば「金持ちの家に生まれて、大学に安穏と通って、世の中を知らない坊ちゃん」である私は、酒なんか飲まないに決まっているのだ。このイメージがあるから、「あまり飲まない」という否定詞を耳にしただけで、自分のイメージに合致する「まったく飲まない」とい文に書き換えられてしまうのだ。そして自分のイメージに合致しない、今まで聞いた私の飲酒の話なんかは、すべて忘れてしまっている。自分の期待する結論以外は、すべて忘れているのだ。


 だからこそ、イメージの持ちようもない出典のない短い単文に於いて、いきなり指示代名詞が出てくると、これが何を意味しているのか想像することが彼には出来ないのだ。彼にとっては、すでにソリッドに出来上がった包括的なイメージでしか、物事を判断することが出来ない。いきなり「彼」「これ」「それ」が出てくると、何を意味しているのか地道に判断することが出来ない。
 それは彼に、些細な情報から少しずつ部分的なイメージを作っていく習慣がないからだ。1部分が全体の中でどういった意味合いを持つのか判断しようとする習慣がないからだ。彼は、些細な情報からまだまだ未確定のぼんやりした部分的イメージを作り上げていくのではなく、些細な情報からいきなり揺るぎない全体像を造り上げることしかできない。つまり彼にとって部分と全体とは同一であり、全体の中で部分が様々な違った役割を、時には矛盾や重複をしながら果たしているという発想そのものがない。
 ついでに、全体と一部の区別をつけることが出来ず、漠然とした認識ではなく決まり切った確固たる確信しかできない人間は、次のような不思議な発想もする。彼は一般論を、何か具体的な話としてしか受け止めることができない。例えば「誰もが自分の敵となるかもしれない」という、ただの可能性に関するホッブス的な認識を述べただけで、私が具体的な誰かに何か嫌なことをされたから、身近な人々を「敵」と呼んでいるとしか彼には思えない。こんなのは、「男は敷居をまたげば7人の敵がいる」という古来からの箴言を使う人間は、本当に具体的な7人の人間を「敵」と思っている、と解釈するのと同じぐらいバカげたことだ。


 どうやったらこんな認識をできるのか、とても不思議でならないよ。彼の言うように、学歴のせいなんかではないでしょう。少なくとも、こうした人物がもたらす情報を信用してはならない。儲け話や仕事の誘いなんかは、決して受けてはならない。まして一緒に働くようなことはまっぴら御免。どんな不利益を受けるかわかったものではない。そして、私自身に関する情報もまた、彼に与えてはならない。どんな風に歪められて他者に伝えられるか、わからないからだ。
 彼は悪い人ではない。ある面に於いては、とても優れた能力も持っている。根性や行動力も凄まじい。だけれども、とても付き合いにくい人だ。例えお互いが最大限の善意で接したとしても、私とは決してうまくいくまい。私思うに、うまくやっていける他者とは善人かどうかではなくて、その人の物事の認識の仕方に依るのかもしれないね。


27-02
野望

 私の今の生活は、今後1年しか続かない。引っ越すか引っ越さないか、日本から出るか否か、それはわからない。ただ1つ決まっていることは、肩書が変わるということだ。収入も少し変わるかも知れない。ただし生活レベルが上がることはないだろうけど。
 私の今後の人生はまだまだ未知数だ。27-01の賢人のセリフによれば生なるものはそもそも不確定性のことなのだが、私の立場が変わること、私が未だ安定軌道に乗っていないことは確実だ。


 さて、不確定性の中に生きられるということは幸福なことだ。もちろんエーリッヒ・フロムを引用するまでもなく、不確定性すわわち自由とは、とても恐ろしいことでもある。だけれども、堅実と見なされそうな人生を歩んでいる多くの知人友人がとても出来そうにないことをしでかせる。これはとても嬉しいことだ。
 具体的にはいったい何をしでかすのか。それはまだまだわからない。ちょっとやってみたいことを考えてみよう。


・ロシアか中央アジアに於いて、アニメキャラのぬいぐるみを写し込んで景色を撮影し、サイトにアップする。

 二次元趣味持ちのサイト管理人が、観光地や郊外でたまにやっていることだ。だが、ロシアや中央アジアでやる人間は見たことがない。海外旅行ぐらい誰でもできるし、旅行ついでにぬいぐるみやフィギュアを忍ばせれば海外でも出来ることだ。
 しかし、多くの人はロシア語を話せない。ロシア語を話せない以上、ロシア・中央アジアへ旅行に行く際はツアー以外の選択肢はまずあり得ない。さらに言えば、個人旅行をするためには煩雑な手続きや招待状が必要だ。さすがに大勢いるツアーで、しかも家族や友人と連んでの参加で、アニメのぬいぐるみと記念撮影できる胆力の持ち主は、まずいないことかと。ロシア・中央アジアへ行く人間自体が少ないことを鑑みると、限りなくゼロといってもいい。
 その点、ロシア語を話せなくもなく、観光以外の区分で入国する可能性を持っている私は、単独行動でさりげなくぬいぐるみ撮影をすることが可能なのだ。・・・もっとも、ただでさえ日本人がからまれやすく、不審な人間を放置しておかないロシアで、あんまりバカなことをしているとどんな目に遭うかわからんが。そもそも今現在でもソ連時代同様、うかつに写真を撮っているとまずいことになることもあるとも聞くし。
 ま、もしロシア/中央アジア行きの機会があれば、スーツケースにぬいぐるみはしのばせていきたい。


 ・・・「野望」というからどんな凄いことか、あるいは今後の生活や糧にかかわることかと思いきや、こんなことしか考えられんとは。我ながら、アホである。


27-01
ЗОЛОТЫЕ СЛОВА

 今日ロシア語の本を読んでいたら、こんな文句が出てきた。
「Никого нельзя назвать счастливым ранше его смерти.」
 古代の賢人が、死刑台に連れて行かれる最中に述べたコトバとされている。誰のコトバの引用かは私にはわからない。この文は、直訳すれば、「いかなる人間に対しても、その死以前に、幸福だと言うことは出来ない」。要するに、人間が生きているうちはその人が幸福かどうかはわからないということ。今「幸福」だと思っていても後で覆るかも知れない。今「不幸」でも事態は変わるかも知れない。自分を取り巻く環境もさることながら、自分自身の意識や価値観念が変わるかもしれない。ま、生きているという不確定性の中に於いては、幸福かどうかなんて死ぬまでわからないということだ。


 これを読んで思ったことは、自己を「不幸」と称し、他者を「幸福」だと称したがる人々のことだ。たった27年生きているだけでも、随分とこうした物言いをする人間に出会ってきた。自分を「不幸」だと思うのは本人の勝手だが、ろくに知りもしない他者を当たり前のように「幸福」と思いたがる精神構造は病理的だ。
 なにしろ、他者と自己とをこうした「不幸」と「幸福」との対比関係で捉えることにはものすごい快楽がある。物事を的確に見ることからの逃避にも繋がる。自分を「不幸」と思いこんでしまえば、自分の不成功や失敗はすべてそのせいに出来る。それどころか、自分には努力してもムダで、どうにもならないという諦念もでっち上げられる。
 さらに言えばこの発想は、自己と他者との間に優劣関係を見出すことに他ならない。つまり、「幸福」な他者は、自分よりも優れた環境にあるから成功し、大した苦労もしていないから精神的に脆弱で、本当は能力も低く、人格にも劣るなどと、その実情を知りもしないのに劣った人間と思い込むことに繋がる。「不幸」な自分は、逆境の中に耐え抜いて人格が陶冶されており、人よりも不利な中で自分が為す事は尊いと無条件で見ることにも繋がる。その結果、「幸福」な奴は「不幸」な自分に同意し協力して当然で、それどころか何をやっても自分は許されるという妄想さえ当然のような気がしてくるのだ。バカげた発想だが、こうした歪な優劣関係を当然のように捉えている人間には、しばしば出くわす。


 まあ生者のうちに「幸福」かどうか知る術はないという古代の賢人のコトバはさておき、私は今現在の自分は幸福だと思う。なぜならば、私はボロアパート住まいと言えども、大した不便もなく文明的な生活を送ることが出来ている。大して高価なものでもないが、PCやデジカメを揃えることができている。広範に役立つかもしれない語学に従事していられる。語学以外のことをも学ぶチャンスがまだ残されている。関東に暮らして、たまに友人らと会うことが出来る。そう健康でもないが、人並みに生活できる程度には動く身体を有している。すばらしく幸福なことだ。
 この程度の条件を持っていない人間が、私を羨み、やっかむ気持ちはわからないでもない(ただし、私に向かって何か抜かす人々は、私の「幸福」をかなり過大評価している)。だけれども、私はとても恐ろしい。こうした些細な「幸福」を失うことがとても怖いのだ。まず今の生活を支える基盤たる、健康を害することや収入源を断たれることは恐ろしい。学ぶことができる今の時間をムダにしてしまうことが恐ろしい。学んだことが何の役にも立たないことも恐ろしい。私は今現在、大きな目では自分を「幸福」と認識することが出来るが、いつそれが崩れ去るか失われるか、わかったものではないのだ。古代の賢人が言ったのは、そういうことだ。


 いつ「幸福」が失われるか。これは持てる者にしかわからない恐怖だ。「不幸」を自認する人間はこんなこと考えまい。だが、「幸福」の喪失を恐れるということは、恐らく「不幸」な人間にとってはくだらないことに違いない。これは金持ちと貧乏人のリスクになぞらえた方がわかりやすい。
 貧乏人の家には泥棒などまず入らないが、金持ちの家にはこそ泥、詐欺師、強盗に至るまで様々な悪党が乗りこんでくるリスクがある。いつ自分の財産を奪われるか。それは金持ちにしかわからない恐怖だ。カネだけでなく、財産があるために命まで奪われるかもしれない。これは金持ちしか負わないリスクだ。金持ちがこうしたリスクに怯えることは、最初から貧乏な人間の「不幸」にとっては嘲笑すべきものか?最初から貧乏な人間から見ると、どうでもいい屁みたいな問題か?私はそうは思わない。


 保持しているものを維持するのは難しいことだ。さらに言えば、あったものを無くすのは最初から何にもない状態で居続けることよりも悲しいことだ。それは所詮持てる者の論理だと言う人間がいるかも知れないが、そんなことを言える人間は本当にどうしようもない最貧層に固定化され、明日死ぬとも知れない人間ぐらいなものだ。
 少なくとも私の周囲を跋扈しているような人間は、自分が「不幸」だという妄想に浸るあまりに、自分が失うと困るようなもの(例えばちょっとした収入や社会的立場、健康や家族といった些細な幸福)を認識していないだけではなかろうか。私の知人の中には、若干の条件・環境に差違はあれども、どうしようもなく何にも恵まれない人間なんぞは存在しない。


 たかが27才の私には、人生に於ける「幸福」と、その変遷については多くを語れない。古代の賢人が言うほどは、人の「幸福」はそれほど変わるものではないかもしれない。「幸福」の度合いを測れるとしたら、低い位置に停滞し続ける人間や没落する人間の方が、急浮上するする人間よりもずっと多いかも知れない。
 だけれども、私は自分が何かを持っていることに鈍感で、他者が自分よりもより多くを持っていると思いこむような人間を、決して快く思うことはないだろう。まして、自己が「不幸」だという妄想に耽り、他者をとんでもなく「幸福」と思いこむ余り、自己と他者との間に歪んだ優劣関係を見出して甘えた言動をするような人間を、決して信用することはない。


 ついでに言えば私は、他者が自分の「幸福」を破壊する可能性が、この世に存在することそのものを恐れている。万人が私に不利益をもたらす可能性を秘めている。あらゆる人間は、その善意や悪意、人格に関係なく、他者に損失を与える物理的可能性を持っている。当たり前のことだ。この程度のホッブス的世界認識を、自らを「不幸」と称し、他者を「幸福」と決めつける人間は理解できない。なぜならば自称「不幸」人間にとっては、喪失や苦労とは「不幸」な自分にしか降りかからないものだからだ。「幸福」な他者には降りかかってきたこともなく、これから降りかかることもないものだからだ。
 私は自称「不幸」人間が、まったくの素寒貧でもないのに「不幸」という自己認識を持って疑わないことも、人の実情もしらないのに他者を「幸福」としか思えないことも、快くは思わない。しかしそれもさることながら、例え自己よりも他者の方が「幸福」なのが事実だとしても、「幸福」だからこそそれを守りたいと思う心を理解できず、まして闘争や暴力が自分にしか降りかからないと思うような、恣意的な認識しか出来ない想像力のない人間を、決して対等な人間として認めることはない。


 ま、最初にも書いたが、自分を「不幸」と思うのは本人の勝手。特に、心身の状態が低迷しているときは、僅かであっても「幸福」という自己認識なぞはなかなか持てまい。だけれども、私は少なくとも、自分を「幸福」とは思えない時でも、「自分以外の人間はみんな幸福だ」「誰それの野郎は、苦労を知らない幸せ者だ」などとは妄想しなかった。どんなときでも、僻みややっかみといった自己を貶める感情を他者に向けて、結果として自分の認識力を魔術的なものに至らしめることとは、無縁でありたいものである。


*魔術的認識・・・自分の恣意に基づいて物事を認識すること。つまり自分の願望や確信が先に立ってしまって、それを疑って物事にアプローチすることができない状態。主観と客観を区別できない状態とも言える。具体例としては「一部と全体の錯誤」「現象への人格の適用」などが挙げられる。


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