last up date 2005.02.18

28-10
発音よりも理解力

 何十回も同じことを書いている気がするが、また書く。何故、知識も何もない人間が、クソ度胸で外国人と話したり、外国に乗りこんだりすれば、コトバが流暢になるという妄想が巷を跋扈しているのか、私には不思議でならない。
 でも人がそう思うのには根拠があるのだ。必ずしも机に向かう勉強をしない口実を作りたいわけでも、必ずしも語彙や文法の勉強をする人をバカだと思いたいわけでもなくて、そう思わせる人間が存在するのだ。実際、私自身が語学の道に片足突っ込んでから、「人に出来ると思わせるような発音をするけど、実際には全然出来ない人」としばしば出会すようになってきた。


 これはどういう人かというと、それこそ基礎的な勉強なくして在日外国人のクラブに潜り込んだり、留学やホームステイで長期滞在をした人間だ。肝心なのは「基礎的な勉強をしないで」というところである。もちろん裸一貫でクソ度胸と体当たりで外国人と渡り合えば、それなりにコミュニケーションをとれるようにはなる。メシを食ったりバスに乗ったり、最低限暮らす為のコトバは嫌でも覚える。長く現地で暮らしネイティブと付き合っていれば、耳は慣れ、口はネイティブっぽい発音を出来るようにはなる。
 だがそれだけだ。それだけなのだが、日本で暮らす多くの人々は、ネイティブっぽい発音とイントネーションをすることも、簡単な会話の聞き取り能力も乏しい。自分が出来ないことを出来る人間を見ると、「ペラペラになった」と思ってしまうことだろう。しかも、在日外国人のたまり場を遊び歩く人間や、大した気概もなく憧れだけで留学をする人間はとても多いから、「基礎力がないけど、ちょっと聞けて、発音・イントネーションはそれっぽい人」はここそこに溢れている。だからこそ、「ゼロからでも海外に飛び込めば、コトバが出来るようになる」という妄想が広まっている面もあるのだろう。


 だけれども、私の経験上、こうした人間は少し複雑な会話はまったく出来ない。聞き取れていたとしても、まったくわからない。新聞はおろか、現地の中学生の教科書でさえろく読めない。さらに言えば書けない。私は、ロシア語圏に何年も暮らした人間の文を読んで、唖然としたことがある。文法の破綻以前に、スペルが滅茶苦茶なのだ。アルファベットを覚えたてのネイティブの幼児が、はじめて書く単語と何も変わらない。文盲の一歩手前だ。
 こうした人間が何故読み書きや高度な会話が出来ないかというと、その為の訓練をしていないからだ。語彙と文法の知識がないからだ。いくら体当たりとクソ度胸で、ネイティブと渡り合ったところで、知らない語彙や未知の文法が突然頭に浮かんでくるわけはない。知らないことは考えても情熱を滾らせても出てこない。語彙に乏しい人間が外国に飛び込んでも、目に入って手に取れるような物体の名前や、ちょっとした動詞・副詞ぐらいしか身に付くまい。結局、語彙は恣意的に努力して覚えるしかないのだ。文法に関しては、何も知らない人間がいきなりネイティブと渡り合って身につけることは極めて困難だ。日本語にはない言い回しを理解するのには、日本語で解説を受けて理解して、地道に覚えるしかないのだ。文法であれ語彙であれ、「覚える」と聞くと「無味乾燥で無意味」という発想が機械的に出てくる人がよくいるが、覚えないと身に付かないし、覚えて運用訓練をしているうちに知識に血が通ってくる。


 「発音はヘタで、言い回しはこなれていないけど、新聞を読めてニュースを聞けて、学問や仕事について議論出来る人」と「発音はネイティブ並にうまく、ナウな言い回しやスラングをたくさん知っているけど、ニュースも新聞もわからず、難しい話はまったく出来ない人」とでは、前者の方が圧倒的に優れている。後者はほとんど何の役にも立たない。後者はちょっと時間とカネさえかければ誰でも簡単にその域に達せられるが、非ネイティブが前者の域に達することは、とてつもなく大変なことなのだ。もし裸一貫・知識ゼロで外国に飛び込んで、ネイティブで渡り合うことによって的確な文法や高度な語彙を身につけ、複雑な議論を出来るようになろうとしてら、とてつもない時間と労力がかかる。そして何年も外国に住んだところでその域に達する人間は稀だ。
 だけれども、複雑な会話や読み書きをする為の勉強は日本でも出来る。日本である程度の基礎力をしっかりと身につけてから、留学するなり在日外国人を紹介されて話すなりすれば、とても実り多いことだろう。いきなり裸でどこでも飛び込めばいいと言うものではない。当たり前のことだ。


28-09
危険キャッチボール6000万円

 小学生同士がキャッチボールしていて暴投した球が、別の小学生に命中して死亡した事件が2002年04月にあったらしい。この事件に対して地裁はキャッチボールをしていた小学生2人の両親に対して、合わせて約6000万円の賠償金を命じた。1世帯3000万とすると、天文学的な金額である。控訴すれば減額される可能性もあるが、いずれにしてもガキのキャッチボールによる事故でこんな賠償金が出るとは驚きだ。遊具の近くという危険な場所でキャッチボールをしていたことの責任は重大だったようだ。


 このニュースを聞いて思い出したのは、大学時代の新勧期に於いて、混雑している構内通路でキャッチボールをしていたバカ学生のことた。旧サイトで取り上げたことがあるが、その写真を再び貼ろう。






 スポーツをダシにして大してスポーツもせずに遊び惚けることが目的の、軟弱サークルの連中がキャッチボールをするの図だ。奴らが写真に写るよう、これでも人がまばらになった一瞬の隙をついて撮影したのだ。4月上旬は大学が最も混み合う時期。全学生がガイダンス、履修登録、健康診断、新勧活動などで大学構内に集まる。試験期間でさえここまで人口密度が高まることはない。この中で、このクズどもは人がまさに流れているその中でキャッチボールをしていたのだ。そんなに投球とキャッチの腕に自信があるのかどうか知らないが、何度も投球が逸れて通行人の後頭部に当たりそうになったところを危うく受け止めていた。こんな危険なことあるか。


 私が1度怒鳴りつけてやったら彼等は自分のサークルの出店に引っ込んだが、数分するとほとぼりが冷めたと思ってまたボールとグローブを持って混み合う通路に踊り出て、キャッチボールをはじめやがったものだった。私はこいつらのあまりの愚かさと無神経さ、他者認識の希薄さに怒り狂って写真をサイトにアップしたものであった。さらに言えばこいつら、受け損なったタマを私に当てておきながらも、詫びの1つも入れやがらなかった。
 しかしちょっとした遊びのキャッチボールでも、当たり所が悪かったら死ぬのだ。2002年の事故に於いては、たった9才のガキが投げたタマでさえも人を殺したのだ。もし、こいつらの投げたタマで誰かが死んだり重大なケガをしたものならば、2人合わせて6000万円では済まなかったかもね。ガキ程度の知能しかなかろうとも、法律上はガキじゃないんだから。


 私は大して判断力もない小学生の事故で、その場にいなかったと思われる親が数千万の賠償金を科せられるのは気の毒だとは思う。もちろん僅か数才で何の過失もないのに殺されてしまった子供や、突然大切な息子を殺された親の方が気の毒に決まってはいるけれども。
 だけれども、この中大に於けるバカ共のキャッチボールは許し難い。結果として何事も起こらなかったけれども、18を超え、車やバイクを運転するようになった大人がやることではない。本当に、ふざけて投げたクソボールでも、無防備な人間の頭や胸に当たったら人を殺しかねないんだから。 


28-08
単語か構造か

 外国語の文章を読むとき、単語の意味から文意を読みとろうとするか。
 それとも、単語の意味より先に全体の構造を見抜こうとするか。


 私は後者を心掛けようとしている。だけれども前者の方が簡単なのだ。
 アホみたいな簡単な文を挙げるが、He reads a book.という文に対して、Heは「彼」、readsは「読む」、a bookは「本」と単語にバラして個別の意味を訳していっても、「彼・読む・本」ときたら、「彼は本を読む」とかいった意味になるであろうことは容易に想像できる。何せ、単語の羅列だけでも意思疎通は出来るのだから。千歳烏山駅のホームで外国人に「ワタシ、シンジュク、デンシャ」とか言われたら、新宿行きの列車に乗りたいのであろうということは察せられる。最低限生き抜く為の語学は、こんなものでもいいのかもしれない。それなりに生活して経験を積んだ人間同士ならば、断片的な名詞や動詞から何を言わんとしているのか推量することは難しくはない。
 だけれども、少し複雑な内容になってくると、途端にその方式は有害になってくる。つまり断片の単語の意味から推量したものと実際の文の意味内容とが、かけ離れてくる可能性が高くなる。勝手な妄想をしてしまう可能性が高くなるとも言える。それを回避するためにはやはり、文の構造を的確に見抜く能力が不可欠である。


 少し浪人時代の話をしよう。私は予備校の寮で生活していたので、必然的に寮生達と勉強に関する話を数多くしてきた。私は高校卒業時点ではasやonceの品詞も意味もおぼろげな役割もまったくわからんようなバカだったが、学んでいるうちにそれなりに実力は付いていった。英語は大学入学後はほとんどやらなくなって単位は落とすし、大学末期から今に至るまで初心に帰って勉強し直すハメになっているが、予備校時代の後半に於いては、「英語が出来る奴」として寮では知られるようになってしまった。そのため私は「どうしたら英語が出来るようになる」「英文を読むコツを教えてくれ」としばしば聞かれるようになってしまったものだった。その答えは、「単語の意味に拘らないで、文の構造を見ぬけ」であった。
 聞けば、「出来ない」と言っている人達は例外なく、単語の意味さえわかればそれでよくて、意味がわからなければもうダメだという発想を持っていた。つまり自分が英語を出来ないのは語彙力の問題でしかなく、知らない単語が出ている問題は解けるわけがない、と。そうでもない。語彙はあるに越したことはないが、品詞を推察できれば知らない単語の意味を類推できるかもしれない。逆に言えば語彙があっても文の構造を見誤ったら、知っている単語でもその役割を見抜けず、語彙の知識は何の役にも立たないことになってしまう。
 例えばまた簡単な例文を挙げるが、I'll book a seat on a train.という文章。bookを「本」という名詞だという前提で読んだら、決して意味がわからない。その前提で個別の単語の意味を並べても「私、するだろう、本、席、電車」となってしまう。もはや何だかわからない。想像の翼を羽ばたかせて「私は電車の席に座って本を読むつもりだ」とかでっち上げたところで、これは大間違いである。もちろんこのbookは動詞である。bookが動詞で直後のa seatがその目的語ではなかろうかと見抜いたら、動詞としてのbookの意味を知らなくても、a seat on a trainというコトバから、このbookは「予約する」という意味ではなかろうかと推察できるわけだ。
 この程度の文ならばまだ前後関係や文脈で「単語個別訳方式」でどうにか想像が的中するかもしれないが、もっと面倒な文になると的中率は大幅に下がる。文の語順が入り組んだり、関係代名詞が多重的に掛かってクソ長くなったりしたときには、何がどの品詞で、文に於ける役割は何か見抜くことからはじめないと、どうしようもない。単語の日本語の意味なんか極言するとどうでもいいんだ。わからない単語があったら、「Iがtrainの上のseatをbookするだろう」としてでも無理矢理自分で意味を掴んでみることこそが大切だ。
 ということを言われた寮生は、わかったようなわからないような顔をしていた。結局この手の質問をしてきて、そしてこのことが理解できなかった人々は、試験で点をとることも英文を理解することもうまくいかず、浪人生活の目的である大学合格もあまりうまくいかなかったようだった。


 それと同じ問題が今語学学校で学んでいるロシア語でも起きているから、外国語学習に於ける問題点として、「文の構造ではなく個別の単語の意味を知ろうとすること」の弊害は一般的なものなのであろう。しかも、語学学校はあくまで実用外国語の訓練施設なので、受験英語のときよりもさらに問題は深刻だ。単語の羅列で話し、単語の個別意味の組み合わせで文章や他人の話を理解することに慣れすぎている人間がしばしばいる。確かにある程度の内容までは、「木を見て森を想像する」方式でも意思疎通が出来る。単語の羅列に近い会話と身振り手振でも、外国人と意気投合できる人懐っこい人間もたまにいる。
 だが、コミュニケーションをとれることとコトバを出来ることとは違う。肉体労働や単純作業ならともかく、もうちょい高度な仕事をしようと思ったら、読み書き会話全てに於いて精密さが要求される。「彼・読む・本・家で・毎日」と単語を個別に訳して意味を想像できるようなレベルの語学力では仕事は出来ない。勝手な想像でもって解釈された意味と本来の意味との間の差違は、場合によっては破滅的な結果を生むからだ。だけれども、長いこと単語を個々に訳して全体をでっち上げることに慣れている人間は、なかなか方法を変えられないみたいですな。いやはや。


28-07
現ナマ

 今の世の中、現金なんか手元に置いて、いいことなどろくにない。そりゃあ、ある程度は現金がなければ何かと困るが、何十万百万といったカネを自宅に保管する必要はまったくない。個人宅ならば、急な集金や急病なんかに備えて、何万か置いておけばそれで十分ではなかろうか。私もサバイバル用品の一環として、小銭から少額・高額紙幣まで組み合わせて何万かはいつも手元に置いてある。しかしそれ以上の金額は、ペイオフなんか関係のない平凡な市民ならば銀行に預ければいい。金持ちなら金持ちでリスクをヘッジしつつ金融機関に預ける方法などいくらでもある。


 で、何故現金を手元に置いくのがよくないかというと、もちろん盗難リスクがあるからだ。これは他人事だと思ってはいけない。防犯設備も防犯意識も甘い貧乏人のアパートで小銭を盗むのは、窃盗の常道のひとつだ。さらに言えば、家に普段出入りする知人や親戚が掻っ払うことも十分にあり得る。どんな友好関係にある人間でも、カネに関しては信用してはならない。大金なんかは徒に見せることさえ禁忌だ。どんなに善人でも親しい人間であっても、札束を目にして、しかもそれが盗んでもバレなさそうに思えたとき。魔が差すかも知れない。特に、切羽詰まってカネに困っている状況にあれば瞬間の判断力が鈍ることもある。


 多額の現金を保管すべきではないのは、事業所でも同じことだ。今日日の商売で、多額の現金を必要とする仕事は限られている。多くの人間が出入りし、家族でも友人でもない人間同士が長時間過ごす場所である事業所は、自宅以上に過剰な現金を置いてはならない。事務所荒しビル荒しによる盗難はもちろんのこと、従業員による着服も非常によくあることだからだ。着服はどんなに小さな会社でも決して珍しいことではない。私自身、身近にそうした事例を数件知っている。さらに言えば、結果として盗難・横領が為されなくても、カネの保管・管理そのものに神経を遣わなければならない。


 ちなみに私は、札幌支社時代には経理課員だった。デカい会社なので、札幌支社はビルの1フロアではなくて、ビル1軒を占めていた。そこに働いている人数は結構なものだ。小売業ではないのだけれども、それでもなんだかんだで営業時間には経理課へ各課から現金が集まってきた。
 さて、その現金をどうしたかというと、オフィスの手持ち金庫にぶち込んでそのままなわけはない。すぐに金額を数えて伝票・帳簿の処理をしたら、なるべく早く銀行に預けた。定期的にやってくる銀行員に、カネを回収してもらったのだ。余計な現金があるのは防犯上よろしくないので、一定金額以上はすぐに銀行行きにすることが鉄則だった。その日その日の支出を予想してどれだけ残し、どれだけ銀行に預けるのかは常に頭を悩ませたが、とにかく現金をあまり手元に置くことは避けなければならないことであった。営業時間終了後に、経理課の大金庫に保管していい金額もまた、少な目に決まっていた。


 さて、それを踏まえた上で、今日の話を。私が出入りしている語学学校では、近々わりとカネのかかる研修が実施される。その金額は1人あたり35万円程度。これは銀行振り込みが指定されている。しかしそれに対して、研修参加者の1人は不愉快な顔をした。曰く、「俺はほとんど毎日ここに通っているのに、なんでわざわざ振り込まないとならないんだ」と。


 3万や5万ならばともかく、35万ですよ。しかも1人ではない。この研修の参加者は少人数と聞いているが、それでも窓口支払いにしたら、一気に事務所へ100万200万という大金が集まるのですよ。こんな物騒なこと、とんでもない。私がいた札幌支社でさえ、私が管理している手持ち金庫に100万もあるとどやしつけられた。それが事務員が2〜3人しかいない、それもしょっちゅう買い出しや手続きで席を外すことが多く、手の開いている講師が1人で事務所の番をすることさえあるこの零細学校で、100万や200万を事務所の手持ち金庫に置くなんてとんでもないことだ。もしこのカネがなくなったらどうするんだ。事務員、専任・非専任の講師、受講生・・・誰もが掻っ払うチャンスがあるし、誰もが研修が近いことを知っているし、おそらく盗んでも誰の仕業か、なかなかバレないような気もする。だから事務所にカネなんか置いていいことはない。事務員が何人も常時詰めている大規模大学ならばまだしも、零細学校で現金払いなんかはとんでもないことだ。
 さらに言うと、銀行振り込みならばキャッシュカード1枚持って銀行へ行けば、札ビラ1枚触れることなく支払いを行える。だけれども、窓口支払いだったら大金を持って事務所まで行かなければならない。これは危険なことだ。たまたま引ったくりやカツアゲに遭うリスクもあるが、カネを持っていることは案外わかるものだ。ATMで大金を下ろした人間を見つけて尾行し、人気の少ないところでカバンをひったくるのは犯罪のイロハのイだ。何十万というカネを窓口支払いにして何かあったら、学校が責任を問われることにもなる。


 というようなことを説明したのだが、彼にはわかってもらえなかった。曰く、「100万やそこいらのカネぐらいどこの会社でも扱っているだろう」と。ええ、35万や100万ぐらいのカネは小さな会社でも1日で出入りしうる額ですよ。けれども客が札束を持ってやってくることを望む会社は、大規模な家電量販店など、最初から多額の現金扱いを想定しているところだけだ。高額商品を扱う会社でも、多額の現金の管理・保管をしたがらないことの方が多い。例えばカーディーラーは現金払いを断る。羽振りのいい客が高級セダンや最高グレードのスポーツカーを現金払いで買おうとすることもたまにあるらしいが、それは丁重に断る。あったりまえのことだ。
 なんでこんなことがわからんか。件の人物は私よりも遥かに実務経験が長いはずなのに。経理や会計の部署にいなくたって、カネが札束でそこいら出入りして、事務所に置きっぱなしにするような様子を、よくもまあ違和感なく想像できるものですな。


28-06
bad manner

 私がこの世でただ1つガマンできないものは、他人の咀嚼音である。何故ものを噛むときに、上の唇と下の唇とを密着させずに、歯と歯が食い物を唾液と一緒に練る音を直接周囲の空気に響かせるのか、不思議でならない。食事の席ではもちろん、電車で近くに座った人間のガムなんかも我慢できない。もし私が拳銃を持っていたら、相手が私にとってどんなに有益な人間であっても、どんなに素晴らしい友人であっても、耳元で咀嚼音を響かせられたら弾倉のセフティスラッグ弾頭を全弾を反射的に顔面にぶち込むだろう。
 まあ、実際問題として殴ったことさえないのだから、銃を持ったところで撃つわけはない。それどころか注意を促すことも暫しの間は我慢している。私の親しい友人には2人ばかり、遠慮会釈なく咀嚼音を響かせる人間がいる。ときには私が見ている新聞やパソコンを覗き込みながら、まさに耳元で咀嚼音を聞かせることもした人間だ。耳元でやられたときはよく殺さなかったものだと我ながら感心する。しかし私は、どんなに不愉快でも彼らを怒鳴りつけたことはないし、しばらく我慢してから止めるよう勧告している。まあそれでも一言言われた方は、えらく不機嫌になるのだが。しかし間接的に「咀嚼音を響かせるのはバッドマナーだ」と話をふると、恣意的にか強引に「ああ、**の野郎は最低だな」などと別人の話と解釈されたりもするので、こればかりははっきりと言わないとならない。そうしなければ彼らはガムベースの味がしなくなっているのにも拘わらず、咀嚼音を聞かせるのをやめはしない。彼らが銀紙にガムを捨てるよりも先に、私の気が狂う。


 このように私は咀嚼音だけはどうしても我慢できない。これと同じように、目の前でゲップをされることを我慢できない人もいるし、音を立てて飲み物を飲むのを我慢できない人もいる。あるいは人差し指で人やモノを指すのに不快感を覚える人もいる。けれども、こうした不快感を他者に与えることに鈍感な人間が何と多いことか。
 まあ人間が、他人が覚える痛みや不快感に鈍感なのは当たり前だ。自分は痛くも不愉快でもないからだ。他者のそれを共感するには、人間の想像力は十分ではない。自分が他人に思いっきりぶつかっても何とも思わず、他人にちょっとぶつかられたら怒り狂う人間もしばしばいる。だけれども、そもそも目の前で大口開けて咀嚼音を立てることや人の目の前で豪快にゲップすること、さらには他人を人差し指で指すことが、不愉快なことだとわからない人間もいる。自分がやられてもそう不愉快に思わないのならば、他人が自分のそうした行為で不快感を覚えるとは想像もつくまい。
 だからこそ、マナーについて覚えて身につけるのは有益なことだ。他人が不愉快に思うかも知れない行動を、未然に防ぐことが出来るからだ。さらに言えば、「お前の顔が気に食わない」「お前が息をしているだけで不愉快だ」などとどうしようもないことで言いがかりをつけられることもあるが、少なくともマナーに違反していない限りは、相手は自分の不快感の原因として責めるのに正当性を持たない。逆に言えば、不快感を与えていなくても、マナーがわるければ責められる口実を与えることにもなる。


 アメリカへ行ったときも日本人連中のマナーの悪さには辟易していた。近年ロシア人やアメリカ人と接しているときにも、大口開けて目の前でゲップしたり、人差し指で相手を指したり、ストローで飲料を小汚い音を立てて飲んだりする日本人連中にはやはり辟易している。
 私は注意しないまでもそうした行動をとる人間の格を低く見積もる。職場の上司や取引先の人間も、口に出さないまでもそうしたバッドマナーを見逃さず、低い評価をつけるかもしれない。しかし飲食やゲップの汚い所業について、(もともと日本ではバッドマナーではなかったのか)日本は概ねそれほどうるさくない傾向にはある気はする。が、これから外国人と接したり外国で暮らそうとする者は、マナーについてより勉強しなければならない。
 マナーとは必ずしもただの決まり事ではない。他者に不快感を与えない為の行動様式である。その文化を持つ人々が長年かけて培ってきた、血の通った規範である。異文化に飛び込むのならば、そのマナーについて、特にタブーについて学ばなければ自分の損だ。バッドマナーのために、友好関係を築けたかもしれない人間に嫌がられるかもしれない。品位を低く見られていいことはない。トラブルにもなりうる。
 けれどもそんなこと考えもせず、注意されれば嫌な顔をするか何が起きたか理解できず、いつまでも同じ行動をとり続ける人間は、どうしようもないですな。


 もちろん私も確実に、様々なバッドマナーを気づかずに犯しているでしょう。それは厳に省みなければならない。だけれども、自分も出来ていないからと言って他者を責めてわるいということはない。そんな論理が通用すると、誰も何にも注意も警告も発せられなくなる。マナーの問題は永遠の勉強と修行です。
 だけれども、私は少なくとも人前で豪快にゲップはしないし、大口開けて咀嚼音は立てないし、人差し指で何かを指したりもしないよ(必ず掌で示している)。


28-05
さらば■■電話社

 KDDIのメタルプラスに申し込んだので、4月からは■■電話社とはおさらばです。携帯はau、プロバイダはDION、モバイルはAirH"、マイラインは全区分KDDIの私にとっては、■■電話社に基本料金を払う理由はない。例え■■電話社を含めた他会社がより安いサービスを提供したところで、すでに携帯・PHS・プロバイダのすべてがKDDI系列の私がそれらを変更することは困難である。


 ■■電話社は古から、日本の電信電話インフラ整備普及に貢献してくれた。個人的にも、■■電話社のサービスは私のネットの歴史とともにあった。私が大学2年になって権利を買ってからは早速時間帯限定定額サービスの世話になった(大学1年次は学生マンションの特殊回線を使っていたため、■■電話社のサービスは使えず高額な電話料金を払っていた)。後に導入したネット通信サービスは当時としてはありそうでなかった常時接続という、長年の夢をかなえてくれた。大学時代末期に登場した、たった1.5Mbpsもろくに出ないADSLも、革命的に快適だった。


 しかし■■電話社は、私の電話の歴史とともにあったわけではない。権利を購入すると同時には、私はこれまでの学生マンションでは利用できなかったいわゆる新電電をも使えるようになった。そのため、市外通話に関しては、■■電話社を使った試しがない。何せ格段に■■電話社よりも新電電の方が安かったのだから当然だ。電話は繋がりさえすれば安い方がいいに決まっている。やがてLCR(回線選択装置)によって、新電電の番号を押す必要もなくなった。このとき既に■■電話社からの請求書の内容は、ほとんど回線使用料とネット関連サービスだけになっていた。
 このように新電電の新規参入の時点から■■電話社の電話料金は割高となったが、さらに事態は変化している。平成電電のCHOKKAからはじまり、このたびKDDIと日本テレコムも参入した直収固定電話サービスで、■■電話社固定電話事業は相当食われることは明らかだ。さらにはスカイプなど電話の概念を根底から覆すようなサービスも法人を中心に広がりを見せ始め、今後■■電話社はさらに難しいことになるだろう。


 個人宅には電話などほとんどなく、何回も何十回も試さないと長距離通話もままならなかった時代から、離島・僻地を含めた各家庭に電話を普及させる官民一体の大事業の中で、■■電話社の果たした役割は大きい。けれども、もう官民一体でインフラを普及させる時期は終了している。■■電話社は電話会社ではなく情報通信事業者として変遷せざるを得ない。私もネットに関しては■■電話社に依存していたのだが、やがて■■電話社から離れていった。その理由は2つある。


 1つ目はADSLの接続加減の悪さ。■■電話社のADSLは、貸与されたADSLモデムが悪いのか回線がわるいのか接続アプリケーションが悪いのか、なかなかネットに繋がらなかった。これは同じ型式のモデムを使っていた大学の後輩宅でも、同じ現象が見られた。社会人になってからも札幌で同じモデムを貸与されてADSLを使い続けていたのだが、なかなかネットに繋がらないことは私的時間に乏しい勤め人にとってはこの上なく苛立つことであった。趣味のネット巡回もさることながら、出勤前にちょっと調べものをしたいときなど、死活問題だった。
 だから川崎に引っ越したときは、別のブロードバンド会社のADSLにしようと決めていた。実際、現在のADSLは接続アプリケーションも不要で快適である。もっとも先発サービスは先発であるが故の問題が多く、後発サービスは既知の問題に対処できているだけかも知れないが、同時期に使い勝手が異なるサービスが複数あれば、使い勝手がよい方を使うに越したことはない。


 2つ目は、これはどうでもよいのだが、札幌で電話応対した■■電話社スタッフの対応の悪さ。札幌を引き払う際に当然ADSLモデムを返却しなければならなかったのだが、そのときの電話には困った。気分がいい悪いではなくて、困った。大学を出て東京を引き払う際には、引越の旨■■電話社に連絡すると、宅配便がやってきてADSLモデムを回収してくれた。だが札幌で同じ連絡をすると、「ここまで持ってこい」と言い放たれた。そんなに時間の余裕がある引っ越しではなかったし、そもそも札幌に引っ越してきて1年弱の私は土地勘がない。突然どこぞの営業所まで、平日昼間の営業時間に持ってこいと言われても、難しい。宅配便が使えないのかと私が難色を示すと「**駅!**ビルの下!**の右!」と怒鳴りやがった。このセリフは、**が伏せ字となっていることとその文字数以外は、一字一句そのままである。宅配便の使用が出来ないのならば(本当に出来なかったのかは疑問だ)、可能な方法を使うしかないが、どうしたものか。


 仕方ないから無理矢理時間を捻出して持っていった。札幌の端に住んでいて、すでに車も売却していた私にとっては、忙しい中、結構な遠出だった。それでも私は平日昼間にモデムを持ち込めたけれども、世の中、3日前に突然異動を命じられることもある。引っ越し直前まで勤務しなければならず、平日昼間にまったく時間をとれない人もいる。■■電話社の契約者には、歩行・外出に難がある障害者もいよう。そうした人々は、介助か代理を立てなければモデムを持って返却しに来れないこともある。
 郵便と国鉄しか輸送手段がなかった時代ならばまだしも、今は宅配便事業が全国に普及している。貸与されたADSLモデムの回収はもちろん、故障した電気機器の修理センターへの回収、不要電気製品の廃棄回収、書類の回収に至るまで、今の世の中は宅配業者が自宅や事業所まで取りに来る時代だ。■■電話社ほどの大企業が、東京で回収できて北海道では回収できないとは不思議だ。やはり電話担当がモデム回収のことをよく知らなかったのか、手配するのが面倒で持ってこさせたのではないかと、疑っている。


 同業他社ではモデムの回収に宅配便利用が常識の時代に、歩いて持って越させるサービス水準。そして歩いて持ってこいと吐き捨てるように怒鳴る人。さすがに付き合いを考える。
 もちろん、たまたま電話をとった人間がアホだっただけだろう。それも電話を取ったのがどういう立場の人間かもわからない。しかし選択肢が多く、情報が瞬時に広まるこの時代に於いては、従業員個々人の態度はひどい逆宣伝効果を生むこともある。脇が甘い。


 まあ自宅で電話を使う分に於いては、私は1消費者にすぎん。
 好きなように得になりそうな会社とプランを選びますよ。


28-04
スペインと東欧

 スペインのヨーロッパへの憧憬は凄まじいものがある。スペインは古くから北アフリカより侵略を受け、長い期間モスリムが支配していた。レコンキスタ完遂の後も、「ピレネーを越えればアフリカ」との意識がヨーロッパ人には根強く残った。かのナポレオンもこのセリフを残している。20世紀に至っては、ファシストのフランコがスペインを支配し、ナチスドイツ崩壊後も独裁体制は続いた。この独裁国家は、戦後西欧の政治思想とは決してとは相容れないものであり、スペインは戦後史に於いても長らく孤立していた。だからこそ、スペインのEUへの情熱は並々ならぬものがある。
 ヨーロッパの統合は、欧州の各国民国家のわだかまりを解消するには人類が考えられる範囲では最高の手と言って差し支えないだろう。欧州の中でのアイデンティティと帰属意識に惑うスペインにとっては、自己を名実共に「欧州化」する史上最大のチャンスだ。だからこそスペインは、EU憲法批准に向けていち早く国民投票開催を決めた。
 このスペインの事例は、東欧諸国の動きにも通じるものがありますな。ロシアが大嫌いで、自国を「西欧化」したがっているリトアニアなんかは国民投票さえ行わずにEU憲法を批准したし、東欧の新規加盟国は批准に躊躇しないだろう。その一方で、そもそもEU統合に懐疑的なイギリスなんかはEU憲法を批准するかどうかさえ疑問。まあやはり、ヨーロッパの中で「周辺」と位置づけられる国ほど、恣意的に自国を「欧州化/西欧化」したがるものなのか。まがりなりにも東欧に関心を持っている私にとっては、西のはずれにあるスペインの動きも結構興味深いものがあるね。


28-03
漠然としたイメージと直感のみ

 倫理観を持たない人間とは付き合いにくい。「倫理観がない」とは、「倫理的な行動をしない」という意味でも「悪人」という意味でもない。価値基準の体系を持たないということだ。もちろん体系的な倫理を持っていない人間でも、まあそれなりに日常生活を過ごしていられる。そうした人間ももちろん、人が殺されれば悲しむし、他人のモノを盗む奴には憤る。その程度の感覚は、よほど他者性が欠如した無神経な人間以外は大なり小なり持ち合わせている。だけれども、人間社会はそんな単純な感覚だけで判断できるものではない。


 世の中は複雑だ。利害は複雑に絡み合い、よかれと思ってしたことでも、他者に損や苦労をさせてしまうこともある。利害が明確だったところで、どのような行動をすれば望むような状態を実現できるのか判断するのは、とても難しい。この社会で一貫性のある価値判断をするためには、倫理が不可欠である。
 倫理とは、必ずしも何千年も前の宗教の経典に書いてあることを指すわけではない。倫理とは、極言すれば物事を考える上で最低限の善悪を規定することであり、今の社会や時代を生きるに当たってその原則をどう適用するのが合理的か判断することである。「人を殺してはいけない」とか「モノを盗むな」といった単純な標語は倫理とは呼ばない。「何故人を殺してはいけないのか」を掘り下げて規定し、どういった場合の死を殺人と定義し、殺人がどれほどの「悪」かケース別に判断し、例外は存在するのか「悪」にはどう対処すべきかまでを、現代の社会制度・経済システム・科学技術に沿って厳密に定義してはじめて倫理となる。


 では、こうした体系的な価値判断をする習慣がない人間はどういった判断をしているか。結論から言えば、主観と客観を錯誤してしまう。イメージと不快感とで物事を考えるようになってしまう。こうした人間も、目の前で人を殺した人間を「悪」と見なすことは出来よう。しかし因果関係が込み入ってよくわからない問題に対しては、直感で善悪を決めてしまうしかないのである。
 具体的にはこんな事例が考えられる。自分が今まで持っていた権益を失ったとき、人は誰かがそれを奪ったに違いない、皆が邪悪な企てによって自分をハメたに違いない、という発想に陥ることがある。実は誰の悪意も介在されておらず、情勢が変わっただけだったり自分が失策をしただけだったりしても、そうした不利益の因果関係を突き止める努力をする前に、「他者の悪意」にすべてを帰結させたくなる。他者を「悪」とした方がわかりやすく、自分をイノセントな被害者と見立てることが出来るからだ。「わかりやすい因果関係」と「無辜意識」に飛びつくことは、驚くほど強烈な魅力を持つ。


 「わかりやすい因果関係」と「無辜意識」。これはどうしようもない麻薬だ。自分が何らかの不利益・不快感を得たときはもちろん、自分とは直接関係のない問題に対しても、何が自分の価値観念に於ける「悪」で、問題に対してどう対処することが「善」なのか判断することを、この麻薬は阻害する。
 世の中は、飢え死にしそうな人間にメシを与えるとか、溺れている子供を助けるとかいった、単純な事象によって構成されているわけではない。例え飢餓に苦しむ人々がいたところで、食糧は限られていて全員には与えられなかったり、溺れている子供がいたところで、川の流れが激しくおいそれと飛び込めなかったりする。単純に手持ちの食糧を差し出したり、川に飛び込んだりすればいいというわけではない。むしろそれは最も不合理で悲惨な結末を生むこともある。物事は初等の数学ではない。常に複雑なのだ。そうした中でどうすることが最良ではないまでも、(自分の良心にとって)マシな策と言えるのか。合理的にこれを考えることをせず、「餓えている人間がいるのならばメシをやればいい」「子供が溺れているのならば飛び込めばいい」と単純に「善」なる行為を決めつけ、「そうしない奴は自分のことしか考えないクズだ」として「悪」をも決めつける。こうした単純な因果関係で物事を分かり切った気になり、「最善の策」を為さない人間を責める自分を無辜と思い込む発想こそが、問題解決に対して最も有害である。


 自己を「無辜」と思い込みつつ単純に因果関係を見出すということは、誰かを「悪」と見なすということである。「悪」はだいたい最初から決まっている。それは3つに分けられる。1つ目は「持てる者」、2つ目は「異質な他者」、3つ目は「自分の行動による被害者」である。


 問題に対して、真っ先にその根源たる「悪」と見なされがちなのは、「持てる者」である。どうも「持たざる者」との自己認識を持っている人間は、自分が本来持つはずだったものを悪辣な方法で奪われており、「持てる者」は不当に蓄財している「悪」に決まっているという意識を持っている。だから社会の問題をすぐに「持てる者」のせいにしたがる。例えば、こんなフレーズがよく聞かれる。「金持ちや権力者が私腹を肥やす為に悪事を働いているから、世の中よくない」といった妄想を。こんな漠然とした抽象的イメージでもって社会を語れるわけはない。
 まず、「金持ちや権力者」とやらのどれだけの人間が「私腹を肥やす」ことを最重要課題を掲げているのか不明だ。誰もが使命感に燃えて善行を積んでいるとは思わないが、蓄財が何にも優るような重要事項なのだろうか。むしろ権力欲や名誉欲の充足や事業・政策への意欲の方が、大きなウェートを占めるのではなかろうか。
 さらに「私腹を肥やす」ことを望む人間が、その為に「悪事」を為しているのかどうかも不明だ。巨大な既得権益を手中に収めているのならば、全てを失いかねない不法行為・背信行為に手を染めるよりは、グレーゾーンまでの範囲で利益を追求した方が長期的な利益になるのではなかろうか。
 そして「悪事」を為しているというが、どういった「悪事」が行われうるのかも不明だ。これは儲かっている奴は「悪」を為しているに違いなく、「悪」を為さねば儲からないといった妄想に過ぎず、まったく具体性がない。
 極めつけは、「悪事」を為すことと「世の中よくない」こととの間にどういった因果関係があるのかは、最も不明だ。ここが一番大切な点なのに、この問題に対する考察ないし推察がなければ、これは一般論でも何でもなく、ただの期待と妄想以外の何者にもならなくなる。
 世の中の諸問題は、もちろん特定の人間集団が利益を得るために起きている場合もあるが、多くの場合は誰が善でも悪でもなく、構造的な不合理の為に発生する。人為による不合理とて、葉巻吹かせたカネ持ちのハゲのデブが独占的に大金を手に入れる為ではなくて、例えば「国内市場が脅かされる」「公権力の存在理由が揺らぐ」といった危機感によって為される。誰かが個人的な財布に大金入れる為に起きる不合理などは、少なくとも日本のような先進国では少数の部類だ。
 構造的な不合理を正すにせよ癒着関係を正すにせよ、「個人的な金銭欲の為に世の中悪くなっている」という程度の社会認識では、諸問題の構造を見抜くことも対処策を考案することもできまい。


 次に「悪」と見なしたがるのは「異質な他者」である。これもまた漠然とした不信感が背景にある。何か問題が起こればそれは異質な人間のせいに違いなく、異質な人間の理解しがたい行動は悪い結果を引き起こすに決まっているのだ。
 これはちょっと考えがまとまらないので、具体例は保留。


 そして最後に、「自分の行動による被害者」が来る。これは甘えが根底にある場合と無神経が根底にある場合がある。
 無神経な人間は、自分の行動言動が他者に損害や不快感を与えているとなかなか気づかない。例え自分にそのつもりがなくとも、不快感や損害を与えられた人間は、善意や寛容ではなく、悪意や非寛容を返してくる。だが、自分が何かをしでかしたという自己認識がない人間は、いきなり自分が悪意に晒されたと感じるわけだ。悪意に対して人は相手への反感を真っ先に覚える。この不快感は、相手を「悪」と決めつけ、自己を「無辜の被害者」とする意識につながる。そう考えれば、自己を省みる必要もなく、一方的に怒りを晴らすだけでよいからだ。そうなっては、自分が他者にもしかしたら迷惑を掛けたのではと疑うことも出来ず、ましてや自分の行為が他者にどういった影響を与えているのか検証することもできない。これは概ね客観的には些細な言動・行動によって引き起こされる問題なのだが、些細なことだからこそ自己を省みることが出来ず、相互に相手を「悪」と見なして相互不信を高め、より悲劇的な結果に繋がることにもなる。余談だが、私思うに個人レベルのコンフリクトの大部分は、この無神経の問題にあるような気がする。
 甘えの場合は、自分の親しい人間は自分を絶対肯定してくれるとの感覚である。親しい人間は、自分に利益を与えてくれるに決まっていて、いつでも自分の意見や行動を支持してくれるに決まっているという感覚である。だけれども、もちろんそんなことはない。そもそも「親しい」ということそのものが一方的な妄想かもしれない。それなりに親しいとしても、誰だって悪辣なことをしたり迷惑をかけてくる人間からは距離を取りたくなる。その結果、自分から親しい人間が離れていったり苦言を呈するようになると、妄想的な甘えを持っていた人間は、いきなり信頼していた人間から一方的に「裏切られた」という感覚に陥る。もともと自分と親しかった人間とは何故付き合っていたのか、どういう関係だったのか、それを中断することによって親しかった人間にはどんな利益があるのか。これに対しては完全に、親しかった人間が「邪な」目的で自分に近づき、用が済んだから「悪辣に」捨てられたというような、極めて抽象的な妄想によって全てを解釈してしまう。「わかりやすい因果関係」と「無辜意識」が最も強烈に現れるパターンで、理性も合理的判断も介在する余地はない。


 しっかりした現代的な倫理観を持っていたところで、この麻薬的な直感とイメージに逃避する魅力から逃れることは、しばしば困難を伴う。人間はそんなに理性的には出来てはいない。だけれども、何でもちょっと見たイメージや真っ先に受ける感覚だけで善悪判定するような人間よりは、倫理観を構築しようと日々苦心し、イメージや直感を疑い、主観と客観を区別しようと心掛ける人間の方が、理知的な生活を送れそうな気はする。
 それに、何でもアホらしいイメージで物事わかった気になり、見当はずれな非難をするような人間とは、例え根が善良だとしても、決してうまく付き合えないであろうて。相互に最大限の善意でもって付き合ったところで、一方ないし双方の人間がよりよい事態の実現の為への合理的な判断力を持っておらず、漠然としたイメージのみによってしかものを言わないのならば、良好な結果はまず訪れまい。


28-02
フンvs自己+α

 フロイト学説は、大半が弟子や後世の研究者によって否定されているが、今もなお影響を与え続けている理論もある。その一つに人間の成長過程を5つに分けた区分がある。そのうち最初の「口唇期」「肛門期」に人格の問題を帰結させる発想はとても興味深い。


 成長過程の最初の一つである「口唇期」は、母親の母乳を吸う、唇の快楽のよって構成される世界観を指す。この時期の赤子には、「自分」と自分の唇を介して触れる「母親」との間に区別はない。自己と他者との区別がつかない時期とも言える。
 その次には、「肛門期」が訪れる。便をオムツに垂れ流して親が処理してくれる状態から、自分で排泄をするようになる時期のことである。ここに於いては、「自分」と「糞」という二元論世界が成立する。世界は自分とは同一ではないこと、不浄というか絶対悪というものを認識する時期である。


 しかし、何歳になっても、何十歳になっても、こうした「口唇期」や「肛門期」を引きずっているのではなかろうか、と言いたくなる人間には往々にして出会す。
 まず、「口唇期」を引きずった人は、感覚として自己と他者との区別が付かない。自分が苦しんでいるのに、他人が苦しんでいないのを「理不尽」だと思う。自分が楽しいときは、相手も楽しいと思い込んでいる。自分の意見に、人はいつでも賛成してくれると信じて疑わない。人のコトバは、最大限自分に都合良く解釈する。こうした精神構造を持つ人間が、他者−それも一方的に信用している人間から意に反することを言われたり、他者が思い通りのことをやってくれなかったりすると、口にすることは決まっている。「裏切り者」と。
 一方、「肛門期」を引きずった人間は、「敵」と「敵以外」を厳正に区別し、「敵」に対しては一寸の容赦も妥協もない。


 さて、「肛門期」をやや引きずり、「口唇期」に重大な問題のあった人間はどのような世界観を持つか。彼女or彼が持つのは、「敵」と「自分」という二元論世界である。彼女or彼は、「敵」と判定した相手には一切の妥協も譲歩もないが、「味方」と判定した人間には過剰な信用と期待をする。つまり、「味方」というよりも「自分の一部」と見なすわけだ。この「味方」は、自分の「敵」に対して自分と同様絶対否定をし、自分に対しては絶対肯定をしてくれると彼女or彼は確信して疑わない。絶対悪としての「敵」という外界に対し、安定して安心できる、甘えていられる空間を見出して逃げ込む。これが「肛門期を引きずった、口唇期欠陥者」の世界である。


 オレはお前のおふくろじゃねえと思うのだが、どうも私の回りにはこういう「口唇期」を引きずった人間がしばしば付きまとう。つまり、私が何にでも支持肯定してくれて、ある事物に対しては私が自分と同じ情念を持つに決まっていて、私と自分とは趣味も思想も共通だと思い込む人間がしばしば出現するのですよ。私は周囲の多数者に迎合しないし、巷で当たり前で思われているであろう意見を言わないし、趣味もマイナーだから、「この晴天ならば自分を認めてくれる」と思うのだか何だか知らないけど。もう勘弁してほしいです。
 さらに言えば、特定の敵に対して私が自分と共同戦線を張って当然と思い込む、「口唇期」と「肛門期」の双方を引きずった人間はもっと困ります。私が「誰それはダメだ」と言えば、「敵である誰それを晴天は絶対否定し、敵の敵である自分を晴天は絶対肯定してくれている」と思うらしい。こうした人間は、私が別の人間と親しくしたり、かつて「あいつはダメだ」と言った人間と親しくしたものならば、やはり「裏切り者」と口にするみたいである。
 つーか、私に勝手に一方的な期待を抱いて、私が自分の期待に添わないことをするからといってそれはないでしょう。


28-01
「ヘンなことを言う」とは何ぞ

 私には、何かの集いから仕事の斡旋まで、知人からしばしば声をかけられる。胡散臭いものではないようだが、私はそうしたものの多くを断っている。私には私の戦略があるし、自分の限られた時間は自己投資であれ趣味であれ人付き合いであれ、自分で決めて使いたいことが山ほどある。突然のアプローチでスケジュールを乱されることは迷惑だ。
 まあさすがに、「迷惑だ」と明言すると後々まずいことになるので柔らかく断っているのだが、断られた相手が言うことは高い蓋然性で決まっている。「相手はちゃんとした人ばかりだから、ヘンなことを言う奴はいない」。何を言っているのかよくわからない。「ヘンなことを言う」とは何のことだ。


 まあ確かに世の中には、誰の目から見ても罵詈雑言としか取れないことを、平気で他者に浴びせる人間もしばしばいる。ストレスの多い社会の中で、目下の人間に不当な言いがかりをつけていながら、「説諭」「指導」「箴言」をしていると思い上がる人間もいる。私がいた某社の北海道総支社長は、いつでも酒気帯びで出勤して出入りの業者や掃除のおばさんをぶん殴り、癌を抱えている部下には「お前は癌だそうだが、それでも飲め」と飲酒を強要するような、本物のクズだった。
 だが、そこまであからさまに人格に問題のある人物を人に紹介するわけはなかろう。「ヘンなことを言う」の内容が、「誰が見ても悪辣と思える非道いことを言う」という意味であったのならば、そんなクズと付き合いたくないのは当たり前。そんなこと、あらかじめ言う必要もない。私が悪辣な人間との邂逅を恐れていると踏んで「ヘンなことを言う奴はいない」と言ったのならば、それは自分が私に信用されていないと公言したようなものだ。
 では、「ヘンなことを言う」とは他にどんな解釈ができようか。「誰が見ても非道いと思えるようなことを言う」と言う意味ではなく、「ちょっとした嫌味を言う」という程度の意味ならば、ナメるなと言いたい。そんな意味で「ヘンなことを言う奴はいない」と言われたのならば、私がちょっとしたことを恐れて二の足を踏むようなクソだと公言されたようなものだ。第一、そこの人々が日常的な些細な悪意を表明するかどうかを、どうやって判断しているというのか。


 むしろ、「誰が見ても非道いと思える罵詈雑言」や「誰が見てもそれとわかるちょっとした嫌味」なんかよりも、「多くの人が見てもわからない悪辣な言」の方が深刻だ。例えばセクシュアリティや宗教、思想信条に関わる差別や同化強要、人格的利益の侵害なんかだ。これはよほどこうした問題に敏感な人間が長期に渡って付き合っていないと、個人固有の文化や思想を侵害しうる人間かどうかはわからない。仲介者が、集会の出席者や勧める職場の従業員について、広範な調査をしているとも思えないし、そもそも仲介者がこうした多文化主義の問題に敏感だとは思えない。


 私はこうした仲介者が持ってくる話にはそもそも乗らないけれども、私が最も恐れるものは知的レベルの低い人間や多文化主義に非寛容な人間に囲まれることである。27-10にも書いたが、私が切望しているものは、私と同等ないしそれよりも高い知的レベルの持ち主と働くことである。バカに囲まれることほどの苦痛は、日常レベルでは他に存在しない。相互に最大限の善意でもって付き合おうとしても、相互に共通の利害のために協力しようとしても、知的レベルの低い人間や異質な他者の受容に慣れていない人間とは、決してうまくいかない。経験的にそう思っている。
 というようなことを書くと「お前はバカではないのか」「何をもってバカか否か分けるのか」と言われるが、少なくとも、学士号を持って学士としての給与と待遇を与えられている人間達の圧倒的大多数が、小学校レベルの漢字の読み書きをろくに出来ず、中学レベルの英単語を発音できず、基礎的すぎる社会・経済への認識さえもろくに存在しない職場に於ける経験に照らし合わせれば、少なくとも私よりもバカな人間の実在だけは確信できる。


 とにかく私にとって大切なことは、誰が見てもそうとわかるような罵詈雑言を浴びせるか否かではない。最低限の読み書き社会認識はできるかどうか。客観と主観を混同しないでものを考えられるか。そして、自己と他者とが異なることを理解できるかどうか。それだけである。


戻る