last up date 2005.05.04
32-10
方法を間違えては声は届かない
大事故を起こしたからといって、一介の鉄道会社従業員に対して、罵声や会社への論理的批判を浴びせるのはいかがなものかね。社長など取締役が組織の問題に対して批判を受けるのは当然だ。実際に事件事故の当事者だった従業員が責められるのも、やむなきことだろう。上司の命令に従ったが為に責められ、しかも命令に従ったが故に処分されるなどというのは、あまりにも不条理だが。しかし、ただそこいらにいる従業員に掴みかかって何になる。親兄弟や親しい友人を亡くした人間ならば怒りをどうしていいかわからなくて、目に入る従業員に怒鳴りつけても仕方がない。けれども、行きずりの人間が義憤でそこいらの従業員に掴みかかることに何の正当性がある。職務中の駅員乗務員の業務を妨害することに、何の理がある。さらには必ず、相手の問題につけこんで自分の利益を図ろうとしたり、無茶を通そうとする人間も出ててくる。ただ自分が正しくエラい人間になった感覚を得たいだけの為に、罵声を浴びせる人間も必ず出てくる。例え相手が問題の多い会社に勤めていようと、義憤を噴出させて何か言った気になり、ついでに自分のストレスまで解消する人間は、どうかと思うますよ。
だいたいね、そこいらにいる駅員や献花台の受付をしている従業員に何を言おうと、いかなる情緒を込めて的確な論理で批判をしても、何かが変わるわけでもない。一介の平従業員に何の権限がある。鉄道会社は、ただでさえ日常の遅延や運休で利用者が暴徒化しようとするときに、立場の弱い従業員を矢面に立たせて、権限ある人間や有力なベテランはいつの間にか消えてしまう体質がある。もちろん権限ある責任者が群衆にまみれては問題解決を図れなくなるから、これは妥当な対応だ。ただしこの対応は、利用者が何を言おうが何をしようが権力者まで伝わらない仕組みを造り上げてしまうのだ。ここで言う権力者とは、必ずしも頂点の役員だけを指すわけではない。権限を持つ中間層の人々をも含む。
ま、権力者が現象面の問題に疎くなるのは、あらゆる社会・集団に於いて言えること。現象についてわからないのだから、問題の本質の探究どころか、問題の存在そのものにも鈍感になる。だから、会社の問題を変える為には、権力者に問題を自覚させなければならない。その為に必要なことは、矢面に立たされることを前提に出動させられている平従業員に何か言うことではない。それでは、権力者は予定されている範囲の出来事として何事もなかったかのように処理してしまう。問題を訴える為には、もっと別の方法を考え出さなければならない。
もっとも、私は鉄道会社の組織形態や政治関係についてよく知らないから、どういった方法が有効かはわからない。クレームから生産的意見を抽出して権力者に伝える仕組みを持っている会社は増えているが、鉄道会社にはこうしたメカニズムはあんまり確立していないのではなかろうか。おそらく鉄道会社は、事故の際に拙い対応をした従業員を処分し、役員が辞任でもして幕引きにするつもりだ。実際問題として、それ以上のことはなかなか出来ない。しかし一介の平従業員や中間職をクビにすることはもちろん、役員が総辞職してさえ、なかなか組織の風土はかわるものではない。個人に責任を帰結されて決着とする限りは、物事はさして変わらない。
だから、組織を変える為には、組織そのものに対してダメージを与えるのが有効な策だ。これならば、組織を構成する小さな個々人にも、(交代しようとしなかろうと)役員にも、危機感が沸き立ち組織改革へのエネルギーが生まれるかもしれない。その為には、競合の多い地域なので当該鉄道会社ボイコット運動を組織的にキャンペーンを打って起こすとか、同志で結束して何か口実を作って訴訟を起こすとか、人数を集めて政治家や政党、政府、自治体に鉄道会社にとって打撃となるような制裁措置の嘆願を出すとか、やることはいくらでもある。もっともこれらの行為に効果があるかどうかは疑問だし、実施するのは大変なことだ。だけれども、これほどの大事故は被害者の会や支援団体は必ず結成されるので、それを支援するのが最も堅実な手だ。こうした団体はかならず大規模な訴訟を起こすし、鉄道会社への最大の糾弾者として様々な組織活動を行える。こうした組織に参画あるいは支援することこそが、個々人に出来る最大の鉄槌になろう。なんにせよ、ただ怒鳴り散らすだけの行為は何の生産性もないばかりか、鉄道会社の組織体質を温存するレールの上に乗った行為でしかないので、義憤を持つ人はそんなくだらないことにエネルギーを使うべきではない。テレビで下っ端職員が怒鳴りつけられている図を見た権限ある従業員は、もう矢面にいなくてよかった胸をなで下ろして危機意識を鈍らせさえするかもしれない。
32-09
テレビと新聞
私はNHKの19時のニュースを毎日欠かさずMPEG1で録画している。容量を減らす為にVideoCDのレートで録画しているので、画質はあまりよろしくないが。だけど、こういう毎日の映像の中に、貴重な映像が含まれていることがあるのですよ。海自強襲揚陸艦(自衛隊では輸送艦としているが)の大型ホバーが浜辺に乗り上げる映像、外国軍の各種兵器の射撃風景、新型航空機の飛行風景、警察官の拳銃射撃訓練などなど、ニュース録画だけでも興味深いものは随分と採取できるものだ。
かつて私は新聞やテレビといった大衆が享受するメディアを軽く見ており、軍事・銃器・航空に関する知識情報は専門書から仕入れればそれでいいと思っていた。だが、こういう当たり前の情報にも見るべきものは多いのだ。誰もが見ている情報だからといって価値が低いわけではない。問題は注目するかどうか、何を見出し、何のために保存し整理するか、ですよ。
同じ観点から、新聞も再び取り始めてから1日も欠かさず読んでいるが、これもまたテーマを決めてスクラップしている。私の知識の大半は、新聞から摂取していると言っても過言ではないだろう。新聞は大学1年次からとっていたが、読まない日の方が多かったし、スクラップもやってみたことはあるが整理方法を確立できないうちにやめてしまった。今考えるともったいないことをした。新聞講読代金が、ではない。情報が惜しかった。もっとも、荒んだ生活をして、家にいる時間も乏しく、しらふでいる時間も短かった学部時代に、それは出来なかっただろうけど。ま、今やり続けているからいいのですよ。
やはり、新聞もテレビも使いようなのですな。
32-08
プリンタサーバー機能はやっぱり使いたいのだが
オールインワン・プリンタは、コンセント数とスペースの節約という意味ではとても便利だ。コンビニまで行かなくともコピーを手軽にとれるのも語学学習者としてはとても重宝している。だけれども、複数PCで共有できないのは不便。いや、私のNASにはプリンタサーバー機能もあるので共有は容易だ。だけれどもプリンタサーバーにUSB接続してしまうと、スキャナとしての機能がまったく使えなくなってしまう。まあうまくいかんものである。いや、独り暮らしで大して広くもないアパートに住んでいるのだから、横着せずプリンタを繋いでいる1stPCまで行って印刷すればそれでいいのだが。ついでにNASがあるので、印刷したいファイルそのものの移動も容易だし。ま、こんなのは不便のうちには入るまい。
32-07
顔が見えなくとも
メッセのチャットの途中、「ゲームで山場だった」という理由で、何の断りもなく一方的に十数分間も通信途絶するのは失礼ではないか。顔が見えなくとも声が聞こえなくとも、自分が今通信している先には他者がいるのだから。
まあこっちから暇つぶしで話しかけたのならば、多少無碍にされてもまだ我慢できるが、そちらから話しかけてきてこれはないでしょう。そんなにゲームが面白いのならば、ゲームだけに没頭してメッセなんかやるな。しかも今回のメッセは、雑談ではなく打ち合わせなのですよ。それも、2日前に私からメールを出したら、「具体的にはメッセで」と言い残してからまる2日も経ってからの交信だ。私にも予定があるのだから、打ち合わせは早くしたいし、ずっと交信を待ってPCにしがみついているわけにはいかない。連絡をしばらく取れないのならば、その旨メール送るぐらいのことも思いつかないのか。おかげでこっちはスケジュールを立てられなかった。それでやっと連絡が来たと思ったらゲームと並行で、ゲームが面白くなったという理由でPCは十数分に渡って放置かよ。
メッセの最中、突然こちらからの呼びかけには一切応答が無くなった。やがて「退席中」マークがおそらくは自動的に表示された。突然便意が来て便所に駆け込んだのかとでも、私は無理矢理善意の解釈をしようとした。そして十数分後に返事が返ってきたと思ったら、「撃沈してしまった」と。大切な電話が掛かってきて、芳しくない結果に終わったのかと心配すると、ゲームで軍艦が沈んだとかなんとか。十数分席を外したことについて侘びのコトバもありゃしねえ。
それからも、明らかに反応が鈍かった。コントローラー持ったままメッセやっていやがる。しかもメッセの内容も滅茶苦茶だ。日時を聞いたら「適当」。場所を聞いたら「新宿2丁目」。なんの冗談だ。雑談メッセでもこれはひどいが、今回は打ち合わせなのだ。人の時間を拘束していながら、数分に1回内容のないこと書けばなんかになると思ったのか。私は「Fxxx」とか「ふざけんなよ」とか入力したけど、「送信」ボタンを押すのは踏みとどまった。だけれどもロシア語で「Хуй
Вам」と書いて送ってやった。тыではなくвыで、しかも「В」を大文字で書いたのはせいいっぱいの私の悪意だ。まあ大学の第二外語ではドイツ語をとっていた奴は、わからんだろうが。
結局私は努めて冷静に辛抱強く応対し、そうしてどうにか話をまとめることには成功した。だけれども、腹が立つね。たかがチャットとか言われそうだが、媒体なんかどうでもいいんだよ。メッセだろうと電話だろうと手紙だろうと、人間同士のつきあいなのだから。しかも事務連絡でこのふざけた態度。ゲームしながらとは何事か。打ち合わせの対象事項に対する遠回しの抗議かとも思ったが、そういうつもりもないらしい。人様の時間を何だと思っていやがる。時間だけでない。こちらから一生懸命マジメに打ち合わせようとしても、まったく内容のない返事しか返されないことの虚しさといったら!私はゲーム以下か!腹立たしいと同時に哀しくなったね。
私は他者と向き合うときはいつでも真剣勝負だ。
くだらないやりとりでも、いつでも一字一句が私の渾身のメッセージだ。
それを不誠実な態度で応対されて、ないがしろにされると、さすがに何とも言えないね。
32-06
事故の可能性に鈍感なのは、外部も一緒
大事故に際し、ニュースでも新聞でも雑誌でもそこいらの雑談でも、鉄道会社を非難する内容で一色だ。まあ実際に事故を起こして、突然無辜の人間を殺傷したのだから当然だ。1人だろうと100人だろうと、無辜の市民を突然傷つけ死に至らしめるなど、人としても企業としても最悪の犯罪だ(もっとも構造的暴力で、途上国の人民を劣悪な労働環境に固定化して労働力を搾取し、その上で我々先進国民は豊かな消費生活をしている。そういう意味では先進国民やその暮らしを支える企業は皆人殺しと称することも出来るが、そうした「間接的な殺人」はまた別の話)。
でもって、そうした鉄道会社批判を観ていると嘆息したくなってきますよ。事故が起きると人々は事故を起こした会社やその構成員を叩くが、実際に事故が起きるまでは危険行為に関する話を聞いてさえ、何の関心も持っていないことに。世の中、けっこういい加減なことが広く行われている。いい加減にやっても今まで事故が起きなかったのは偶然に過ぎず、これから起きないという保証などはない。安全はコストが掛かるから経費削減や時間短縮の為に手抜きし、規定の方法よりも危険性が高い方法を取られていることも、ままあるだろう。だけど、私の経験上、単に怠惰や慣習によって、危険の高い手順が行われていることだってあるのだ。
私の前職ではしばしば殉職者が出た。単に自動車で移動中に交通事故に遭ったり、あるいはなんかの拍子で機械に巻き込まれたりするような事故が、年に数件はあるという。だけれども私は知っている。さまざまな堕落があることを。作業員が怠惰や遊び心から危険行為や規則違反を繰り返していることを。
機械で重量物を吊り上げている最中に、軍手を丸めてキャッチボールをしていたバカどもを見たことがある。よく死人が出なかったものだ。立ち入り制限区間に資格無くして入ろうとして(人手が足りなくて入るのではなく、ただそこで遊ぼうという動機でだ)、それを注意されて「大丈夫だって。ほら!」と立ち入り制限線の向こう側に入ってジャンプして見せたアホもいた。そりゃ線を越えたら直ちに事故が起きるというわけではないでしょうに・・・。さらに言えば、支社長は朝から泥酔して飲酒運転はするわ、現場主任まで泥酔してから車で帰って「運転した記憶がない」とか抜かすわ、弛みすぎであった。対外資料には「安全」だの「事故防止」だの喧伝しているのだけれどもね。しかし上から下まで弛んでいる会社だったわけだ。これ、下記の通り給料は安いけど、誰でも知っている大手企業なんですよ。世の中信じられないようなバカげた手抜きや怠惰、危険行為なんかに満ちているのではないか。私にはそんな思いが否めない。
だけれども、私が「こんな弛んだ会社でやっていたら自分がダメになる」「こんなところにいて事故が起きたら、私の人生おしまいだ」のようなことを言って、「それは杜撰な会社だ」「だったら辞めるしかないだろう」と言った奴はほとんどいなかったね。私が前職を辞した直接的な理由はもっと別のことなのだが、それでもこの弛み方もまた決心をさせる大きな要素となったことに間違いない。しかし圧倒的大多数の人間が、「世の中そんなものだ」と称して私に堪えることを要求し、会社に嫌気がさして辞めようかと言い出した私を根性無しのクズと責め立てたものだった。私はそう口にした人間とは悉く断交したので大分交友関係が少なくなったが、「辞める」と聞いたら理由の如何を問わず、機械的にクズ呼ばわりしかしないような人間とは付き合うつもりはない。
私のいた某社ではまだ大きな事故は起きていない。まあ列車や原子炉を扱っているわけではないから、もし事故が起きても1人2人死んだと地方新聞の社会欄に出て終わりだろう。もしかしたら1つの事故をきっかけに「**社バッシングキャンペーン」が展開されることもあり得るが、よほどの大事故が起きない限りその蓋然性は低い。だけれども、危険な作業をしている会社が、安全規則の不徹底で従業員を死なせたり、まして社員の飲酒運転で無辜の市民をひき殺すなどということがあったら、とんでもないことだ。私は、まったく無用の遊びや弛緩ゆえの安全不備のために、人を殺しかねない会社なんかにいたくはないし、ましてやそんな理由の事故で人死にが出て遺族に頭下げにいってぶん殴られるのも御免だ。堕落を知りつつも座してメシを食っていたのならば同罪かもしれないが、私はあらゆるパイプを使って本社に札幌の堕落を訴えたりしたんだけれどもね。けれども結果は嫌がらせを受けただけだった。実家にまで来やがったよ。
それはともかく、「●●食品に食品表示に偽装があった」と聞けば、人々は「●●食品は何を食わせる気だ。なんてひどい会社だ」と●●食品を非難した。「■■自動車の車が、ありえないレベルの手抜きで事故が多発した」と聞けば、人々は「■■自動車はなんて堕落した会社だ。人殺しだ」と怒り狂った。「鉄道会社で大事故が起きた。どうやら組織の安全対策に不備があったらしい」と聞けば、人々は「この鉄道会社はとんでもない会社だ。人殺しだ」と叩いた。だけれども、「**社では安全軽視の大問題がある。俺はこんな会社嫌だ」と言ったら、何故人々は「世の中そんなものだ」「いい会社入ってくだらんことで弱音を吐くな」「我慢しろ。一度は行った会社を辞めるなんてクズだ」としか言わないのだろうか。それが不思議でならない。
前も書いたけど、■■自動車の社員もし不祥事が表沙汰になる前に「こんな手抜き車売り出すなんて我慢ならん。事故が起きたら俺は終わりだ」と言ったら、周囲の人々は何と言っただろうか。中には「世の中そんなもんだろ、キレイごと言うな。大人になれ」「そんな青臭いこと言ってたらメシ食えんぞ」「そんないい会社入って**万ももらって何を言う。カネに苦労したことのある奴は、絶対にそんな仕事手放さないぞ」などと言った奴がいたのではないか。つまり現状肯定を勧めるばかりで、不正に対して大した関心を示さなかったのではないか。
結局のところ、問題を起こしてから企業とその構成員を責めればそれでいいと思っているような連中はアホなのです。32-04で取り上げた、「社内で問題があれば、原因究明をせず、犯人探しをして罰則を与えさえすればそれでよしとする企業風土」とさして変わらない。カウンタースペシャリストになれとまでは言わないが、市民たるものは普段から世の中の不正や危険に対して敏感でありたいものですよ。そして企業構成員がもたらす貴重な危険情報に対して、「世の中そんなものだ」で済ませないようにしたいね。最低限、自分の親戚や友人に対して、反社会的で危険な行為にそのまま従事することをよしとするような勧告はしたくないね。そんな行為に、何の生産性もないのだけは確かだ。
32-05
給与明細を引っ張り出す
大学時代の後輩とメッセで話していたら、何かの拍子に給料の話になった。私は札幌時代の給与なんてすでに忘れていたのだが、給与明細を引っ張りだしてみたら、想像よりも安かった。この金額に対して後輩は「ひどいですね」とのこと。具体的な給与額は出さないが、私の給与は彼の給与よりも6〜7万安かった。当時は上司に「車を買え。会社の**を運転できるようにデカいやつを買って慣れろ」と命じられてラファーガに乗っていたけど、実家暮らしならばともかく、独り暮らしで駐車場まで新規で借りて車を持つのは、購入どころか維持さえも不可能な給与だったわけだ。どうやって購入・維持していたのかは、親戚から無料同然で譲ってもらったり、名義をとあるところにして維持費を負担して貰ったり、様々な人の世話になっていたのだ。2000cc車の維持は絶対に自力では不可能だったことだけは確かだ。
こうしたことを思い出して、つくづく不思議に思ったのですよ。何で私の給与を無条件で高いと妄想する人間がいたのかと。
勤めて間もない頃、「お前は高い給料もらっているんだろう」と言う奴がいたのですよ。「そんなことはない」と何度否定しても、相手はますますいやらしい口調になって「ホントにぃ?」「そんなことねえだろう」と繰り返したものであった。僻み根性はだから嫌い。自分以外の人間は金持ちで、自分は貧乏だと思い込んでいるから。けれども、給与明細を読みあげてやったら奴が黙り込んだのを覚えている。つまり貧乏人は私の方だったわけだ。当時読み上げた明細の具体的な金額は忘れていたが、こんな金額では黙るよな。
ま、給与の面に於いても、札幌と縁を切ったのは正解だったのかもしれませんな。
32-04
拷問
脱線事故に関連して、当該鉄道会社に於ける精神的リンチに焦点が当てられつつある。ミスのあった運転士に加えられる精神的リンチとはいかなるものか。新聞やテレビで語られたものを総合すると、こんなものだ。「皆から見える場所に座らせられさらし者にされ、立つことさえ許されない」「就業規則を延々と書き写させられる」「花壇の草抜きのようなどうでもいいことを延々とさせられる」・・・こう書くと大したことないように思う人もいるかもしれない。半日とか3日とか期間が決まっていれば、終わるのを希望にして堪えることはできるだろう。
だが、鉄道会社は拷問の仕方を心得ている。このリンチがリンチとして成り立っているのは、いつ終わるかわからない点にある。しかも長いのだ。1週間後に終わるのか、10日後に終わるのか、それとも1ヶ月続くのか。1ヶ月に及んだ事例もあると報じられている。頭の悪い人間は、「1ヶ月も働かなくて給料もらえるなんていいなぁ」などと脳天気なことを言うかもしれないが、こんな状況に置かれたら誰だって精神がまいる。そして、ちょっとしたきっかけで首を吊ることにもなりかねない。人間は、自分で思っているほど強靱なわけではない。特に、無意味なことをいつ終わるかもわからず続けていられるほど器用には出来ていない。そして実際、自殺者も出ている。
日本の鉄道は、世界に類を見ない精緻な運行を誇る。しかしその鉄の規律の実現の為に、技術訓練などの合理的ペナルティではなく、精神的リンチという非合理的ペナルティの恐怖で追い立ててタイトなダイヤを墨守せしめていたとしたら、そんな規律はロクなものじゃない。命令に従わなければ辛苦を与えるなど、古代中世の野蛮人の所業だ。拷問の恐怖など、蛮人に出来る唯一の支配秩序確立方法と言ってもいい。現代企業ならば、辛苦を与えるにしても減給や訓告といった方法だけでよいはずだ。そうしたペナルティに加えてさらに精神的辛苦という罰を加算して、何になるのか。問題に対しては犯人を捜し出して罰さえ与えればそれでいいという、アホな精神構造が現代企業にまで蔓延っているとは。
人間が従事している以上、ミスは必ず起きる。さらに言えば個人の怠慢や能力不足だけでなく、ミスを誘発する原因は様々なものがあり得る。だからミスを減給など査定に直結させるのは生産的ではない。繰り返しになるが、罰を与えればミスが起きなくなるわけではないのだから。それよりもミスの背景にある原因の究明と具体的な対策こそが必要なはずである。少なくとも、「訓練」の名の下に草むしりや書き取りをさせるよりは、研修施設で運転操作を1から確認して問題を確認した方がよほど役に立つだろう。そして小さなミスが起きたらその都度データを集め、その原因を究明してはじめてヒューマンエラーもどうしようもない外因も抑止できるというもの。ただ拷問で苦しめ、その苦しみを二度と味わいたくないが為にミスをしないよう心掛けさせるなど、却ってミスを隠すようになり事故防止を遠ざける。問題に対して、原因を個人のみに帰結させるだけでよしとする、とんでもなく愚かな対策方法だ。リスク管理が甘すぎる。
ただこうしたことは、必ずしも当該鉄道会社だけのことではない。不合理な精神的リンチは、結構あちこちの企業で耳にする。「研修」の名の下に、そうしたリンチを代行する会社さえ存在する。そのリンチ代行会社の業務内容は、
「公道に立って、延々と大声で演説をさせる」
「あいうえおの書き取りを延々と続けさせる」
「サビの部分で自由自在に涙を流せられるようになるまで、社歌を歌わせる」
「軽装備で富士山にいきなり登らせる(心臓のわるい人間にも強制し、心臓発作で殺しかけた事例がある)」
「自分の一生を振り返らせて、自分は何一つ取り柄のないクズだと泣き叫んで絶望するまで自己批判させる」
などなど。一方会社が自前でやる拷問には、
「オフィスのフロアの真ん中で1日中正座させる」
「私物(腕時計までも!)の持ち込みを一切禁止された部屋に軟禁し、何をするでもなく机に向かわせる。寝たら『業務怠慢』でさらに処分が待っている」
「机を倉庫や廊下に移してそこで業務させる」
などというのを聞いたことがある。
自社であれ委託であれこうした拷問を受ける人間は、当該鉄道会社同様失態を犯した人間か、あるいは営業ノルマを達成できなかった人間だ。これもあまりにもバカバカしい。ヤキ入れたぐらいで売り上げが上がるのなら世の中の会社はすべて男塾になる。そうすれば繁盛だ。さらに言えばリンチが成果に繋がるのならば、第二次大戦は日本の勝利に終わっただろう。あまりにもくだらん。けれどもこうしたことが行われている会社は実在する。
こうした精神的リンチの問題点は、企業がそんなことをすれば何かになると勘違いしていることに留まらない。第三者の目には「大したことがない」と写りやすいこともまた、大問題なのだ。
想像力のない人間にとっては、殴る蹴るの暴行はリンチと見なすことが出来ても、例えば1日中何もせずに座ることを強要させることはリンチとはなかなか思えないらしい。「座っているだけでカネもらえるなんていいよな」などという脳天気なことを言う奴も少なくない。だけれども、何もしないで座っているというのは、とても辛いことだ。わからないのならばやってみてほしい。時計もテレビも話相手もいない部屋で居眠りもせずにただ座り続けることなど、武道や禅の達人でもない限りはそう何十分も出来ないはずだ。
もっとも、もし「1日座っていたら1万円」というバイトだったらなんとか出来るかもしれない。1日で終わるとわかっている上に、カネという目標がはっきりしているからだ。しかし正社員にとって業務時間何もしないのは、精神的に堪えがたいものがある。無為に過ごす時間がいつ終わるとも知れなければなおさらだ。自分は不要だ、役に立っていないという虚しさ。これだけの時間があったら、私的にも仕事においても色々出来たはずという悔しさ。自分の人生の時間をムダにしているとしいう焦り。この会社の中でこれからもやっているのか、元のように就業できるのかという不安。これはかなりのものだ。「一生ないし一生でなくても長い年月ここでやっていこう」と決めて就職した人間でなければわからない苦しみだ。
個人的には、仕事量の波の関係でまったく仕事がなかった日でさえ、何もしないのは苦しいことだった。それでも便所に籠もったり、タバコを一服したり、コーヒー飲んだり、机のパソコンを使っているフリをしたり、必要あるフリしてどうでもいい書類を熟読したりして時間を過ごした。しかし何をすることも許されず、時計さえない中、同僚が某かの業務をやっている中自分だけ「ただ座ること」を強要され続けたら、間違いなく発狂すると自信を持って言える。これは私が弱いとか強いとかいう問題ではなくて、人間は条件さえ揃えば精神の均整を崩す生き物だということに過ぎない。
だけれども、自分だけは何があっても平気な強靱な精神をしているつもりなのか、何があっても堪えられるとでも言いたげな人間は困りもの。いや、自分が強靱だと信じるのは勝手だ。もしかしたら本当にとんでもない図太い精神の持ち主かもしれない。しかしただ、何かに堪えられぬ他者を嘲笑する奴はいかがなものか。もちろんこの世は堪えることの連続。何にも堪えず、楽を追求する自堕落なクズに対しては堪えないことを指弾してもよかろう。だがあまりに堪えがたい、あるいは堪えても意味のない艱難辛苦の忌避を称して、弱者だ逃避だと称するのはいかがなものか。まあ他者を貶めれば、自己が立派で強靭であるかのような錯覚を得られる。だがこれは、非生産的かつ非友好的な態度だ。
私の知っている人間の中にも、職場に於けるリンチや失望について耳にすると自動的・機械的に、「いい会社入って、カネ貰って、衣食住足りている恵まれている奴が何を抜かす」としか言えない人間がいる。断っておくが、過去に何度か書いた「恵まれているクセに他者の恐怖とか抜かすな」として、幸福な人間には不幸が到来しないかのような寝言を抜かした「不遇な奴」とは別人なので悪しからず。哀しむべきことに、私の狭い交友範囲の中にも、会社で理不尽な仕打ちを受けて、精神のバランスを失調しかけている人間は何人もいる。自分の死を願い、世界の終末を願いつつも、惰性的に会社へ通っている人間を知っている。もし明日首を吊っても、満員電車で押したとか触れたとかいう些細なトラブルで人殺しを犯しても、素っ裸になって奇声を発しながら大通りを疾走しても、何にも不思議には思わないレベルの知人さえいる。それほど親しいわけでもないし、私には何もしてやれない。だけれどもこうした人間の嘆きや絶望に対して、「辛いのはどこでも一緒だ」とか「3年もせず会社辞めるのはクズだ」とか「カネもらっているくせにくだらないことで弱音を吐くな」と吐き捨てるのは、どうしようもなく罪深いことだ。他者の痛みを察することはとても難しいが、こんな非友好的な態度をとる人間が好かれるわけはない。私もそろそろ手を切ろうかと考えているところだ。
「たいしたことがない」と言えば自分が強靱で、相手が脆弱な人間として優劣関係を見出せるつもりなのか、安易に世の中の理不尽や暴力に対して「たいしたことない」と言う人間はここそこにいる。繰り返すが世の中堪えなければならないことの連続だし、他者の痛みなどなかなか想像できるものではない。まして同情してやらなければならないということもない。だけれども、精神的リンチや事実上の拷問を笑い飛ばし、傷ついた人間を嘲笑する態度が、世の中の不合理で残虐な慣習を生かし続けているのではなかろうか。そんな気はする。
32-03
必要スペック
何か買い換えるときの為に、必要スペックをメモ。いや、買い換えの予定はないけど思いついたときに書かないと、買い換えの際、何かを見落として大失敗することがうるから。
○携帯オーディオプレーヤー
・全角カナ・漢字の日本語表示可能
・MP3だけでなくWMAも再生可能
・マイク内蔵で録音可能
・PCとの連携に、複雑な暗号化ソフトを介さない
○デジカメ
・シャッタースピードを最大4秒ぐらいまで引き延ばせること
・音声付き動画撮影可能
32-02
忙しい。それはわかったが・・・
あらかじめ断っておくが、これは私がしばしば書く「自分の不遇を売り物にしている人物」のことではない。
とある友人はとんでもなく多忙だそうだ。私は親父が0000時前に帰ってくるのが極めて稀な家庭で育ち、自分自身は出勤退勤時間がとても特殊な企業へ入った為、一般的なサラリーマンのスケジュールには疎い。いったい何時に帰れば「早い」のか「遅い」のかよくわからない。また、長く残ればいいとか早く帰るのが悪いとか、アホな二元論も持っていない。だから彼の「多忙さ」がどんなものかは判断がつきかねる。しかし「忙しい」と言われれば「大変だな」ぐらいは言うし、愚痴を言えば黙って聞くぐらいはしてやる。友人として付き合ってきたのならばそれぐらいのことはする。
ただ、それ以上のものを示す必要性は感じない。言うまでもないことだが、他人が従事している仕事に於いて出会した事象に、あまり関心を持てないからだ。人間の想像力は狭い。余所の業界の名前ぐらいしか知らない会社に於ける、他人の問題について感想を持つは難しい。まあ「不条理な命令によって自分の人生の時間を浸食されている」と聞けば、同情ぐらいはする。けれども、それ以上のことは何も言えない。当たり前だ。学生時代の人生相談や些細なトラブル相談とは違って、想像力の及ばない場所で自らの責任に於いて働いている人間に対し、何を言えようか。「転職しろ」とか「我慢して働け」とか無責任に好き勝手言う人間はしばしばいる。特に、何もわからない分際で後者の勧めをする人間が多い。けれども、私には何も言えない。繰り返しになるが、出来るのは「聞くこと」だけだ。
ただ困るのはね、その友人が自分の「忙しさ」「大変さ」との対比で他者を見下すことだ。会社の同僚や上司についての批判や雑言ならば、事情がわからないので何も言えない。だが、「忙しい自分」は世界で最も不幸な人間で、世界の多くの人間は自分よりもヒマで、しかもヒマなクセに給料も高く、安穏と暮らしているという妄想を彼は抱いている。この滅茶苦茶な妄想に基づいて、内情を知りもしない他者について見下したり侮蔑したりするのはどうにかならんものかね。妄想に基づいて特定の職業や共通の友人を悪く言われると、さすがに気分が悪い。さらには聞き流してやっているけど、彼は暗に私をもそうした「ヒマでゆとりがある愚か者」扱いしてくる。それを聞くのはさすがに看過しきれない。
彼が「自分は圧倒的大多数の他者よりも多忙」とするのが、どれほど妥当なのかはわからない。だけれども、「時間的に多忙で拘束時間が長いこと」と「仕事の大変さ」は必ずしも正比例はしない。さらに言えば自分は薄給で他者は高給に決まっているという発想は、とんでもない妄想だ。彼は私の給与を、給与明細を読み上げてやるまでは天文学的に高額に決まっていると思い込んでいた。何でこんな妄想を持たれたのか理解できない。実際は私の方が少なかったのだが。
このように、彼の言う「安月給で」「長時間酷使されていて」「他の勤め人よりも自分は大変だ」という発言の内実は、ちょっと疑わしい部分がある。しかしその真否はさておき、彼は「自分が大変だ」ということを、他者よりも自己をエラいと見なす根拠になると勘違いしている。つまり、「自分はとても大変」だから「他者は楽をしている」に決まっているという妄想が芽生え、この発想が、私が言うところの「不幸の優劣関係」をもたらしているのだ。
「不幸の優劣関係」の内容は要するに、「不幸」な境遇の自分はエラく、「幸福」な他者は愚かだという発想だ。これは快楽だからね。つまり以下のような錯覚に浸ることが出来るわけだ。自分は「不幸」な中で努力しているからその行動は尊く、失敗としたとしても「不幸」な境遇だから仕方がない。他人は「幸福」だからうまくいくのは当然で、「幸福」なのにうまくいかない奴はよほどのクズ。そして自分は「不幸」を知っているから精神的に強く、能力を研ぎ澄まされているが、他者は「幸福」の中で何も知らずに安穏としてきたから精神的に脆く、能力も大したことがない。
・・・こんな妄想を持つと人間おかしくなる。他者をまともに評価出来ず、貶めることが当然のような感覚に陥る。その上、自分が無条件にすばらしい精神力と能力を持つかのように錯覚してしまう。彼はまさに、この優劣関係で自分と自分以外の他者を捉えてしまっている。友人としては、哀しいことだ。
前述の通り、一人の社会人としてやっている人間に対し、言えることなどない。それでも敢えて何か言うのならば、なにを言うべきか。私はこんな妄想に囚われている彼に対して、「みんな辛いは一緒だから自分だけ辛いと思うな」とは言わない。実際問題として、どんな境遇の人間にも問題や葛藤はあるし、「仕事の忙しさ」という一点に於いては楽な人間だって、他の面でどんな困難を抱えているかはわからない。まあこれは当たり前のことだが、自分が「この世で有数の忙しい人間」と思い込んでいる人物にそんなことを言ってもムダだ。彼に言えることは、「だったら何故辞めないの?」の一言だ。
もし本当に彼が「他の人間よりも圧倒的に忙しく、それでいて他の大多数の人間よりも薄給」ならば、何故転職しないのか理解できない。「忙しさ」や「薄給」の内実がどうあれ、今の職場環境で精神的・肉体的にやっていけないのならば、辞めるしかない。続けられないことは続けられないのだ。他人が続けられることでも、自分には続けられないことなどいくらでもある。大切なのは適性だ。一場所でやっていけないからと言って、他でやっていけないということにはならない。まして、「激務・薄給」に堪えかねているのならば、薄給でも相対的にのんびりしたところか、あるいは同じぐらい激務でももう少し給与がマシなところを探せばいい。世の中仕事なんかはたくさんある。「どこに行っても辛い」とか「すぐ会社を辞める奴は他でもやっていけるわけがない」などと口にするバカは極めて多いが、そんなバカなことがあるわけがない。転職している人間なんかいくらでもいるのだから。
ついでに言えば、正直、彼の今の仕事は40才50才になってまで続けられるものとは思えない。だから、いつかは彼の多くの同僚のように途中で辞めることになる。だったらいつ転職するかいう問題になる。私思うに、辞めるのならば早ければ早いほどいいのではないか、という気はするね。彼の今の仕事は、実務経験としてカウントされにくい類のものだからだ。さらに言えば極めて閉鎖的で特殊な空間に長くいると、余所で通用しない妙な世界観や仕事観を持つことになる。こういった自分にとっての「常識」は、年を取ってからだと疑うことさえ難しくなってくる。だから私が彼に対して言える最良のアドヴァイスは1つ。「辞めろ」だ。
まあそんなことは言わないよ。責任を持てないし、猛烈な非難を浴びるのは分かり切っているからだ。辞めたところで、彼が望むような再就職がある保証とてない。それに彼は、一度入った会社を辞めることを、とても恥ずかしい半端者の所業と考えている。もし会社を一度辞めたら明日にでも飢え死にすると思い込んでいる。失業保険を申請する胆力どころか、その知識さえもあるかどうか・・・。
彼が今の仕事をいつまで続けるか、いつ辞めるつもりか。そんなことは彼自身の問題だ。だから私は彼の愚痴に対して聞くことしかしない。余計なことは何も言わない。だけれども、あまりにも悪辣な妄想を抱きながら生きている彼を観ると、嘆息したくなってきますよ。今はくだらんことを言われることも多いが、私にとっては最も重要な友人の1人だからね。
32-01
物欲リスト
最低でも来年度の方向決定までは買わないし、方向決定後も「買えない」とわかるかもしれんが、一応欲しいと思っているものを。
・90度回転可能な液晶ディスプレイ。
サムスンあたりが出しているやつね。縦長のディスプレイは、スキャニングした書類なんかを読むのにとても便利だ。そのためそれ専用のマシンも低スペックでいいので1台欲しいところだ。
・新メインPC。
今のPCでまるで困らないのだが、さすがに現在に於いてはちと遅くなってきたのは確か。ついでにデュアルディスプレイも現在の段違いな組み合わせではなく、同一のものを2つ組み合わせたいものではある。・・・いくらなんでも、そこまでするカネはねえか。
・新ノートPC。
デジカメメディアのスロットがついていて、光学ドライブがついていなくていいからコンパクトで、消費電力が小さいものを。ということは携帯ノートですな。今のノートはそれ1つで外国に住むことも考えて光学ドライブ付にしたのだが、国内でデスクトップPCのある部屋でクラスのならば、軽量モバイルノートが欲しいところ。
・新デジカメ。
コンパクトデジカメに関しては、DimageXtを超える利便性を持つ製品は現れていないように思われる。だが、画質・望遠にこだわる1眼タイプならば、C750よりもずっと高性能な製品が割と安価で手にはいるようになってきた。デジタル1眼レフも今年中頃にはレンズセットで10万を切るとも言われている。いずれは手を出したいものではある。・・・そんな大きなカメラは持ち歩くのも不便で、その上猫ぐらいしか撮るものはないが。
・広い部屋。
今の部屋で「狭い」と言ったら東京都民の皆様に殴られそうだが、本を置く場所がそろそろなくなってきた。もし研究者の道に進むのならば、もう少し壁量と堅牢な床を確保したいところ。
・猫+猫を飼える部屋。
これは難しい。猫を飼える部屋そのものは、少し利便性のわるい郊外の老朽マンションを借りれば、そう難しいことではない。問題は私が独り暮らしで猫を飼えるかということだ。旅行どころか帰省さえ難しくなる。10〜15年責任を持って飼うためには、先の見通しがしっかりしないと無理ですな。
まあ最後の猫・部屋はともかくとして、他はすべて保有している製品の、より優れたものに過ぎない。液晶ディスプレイもデスクトップPCもノートPCもデジカメも存在するのだから。つまり私はたいして不自由していないというわけだ。ただもちろん、いい条件の生活をしていようとしも、よりよいものを求めるのは人間の性であり、煩悩でもあり向上心でもある。ま、そのうち買い換えればいいなー、というぐらいで「パソコンがないからパソコンがどうしても欲しい!」という切実な欲求とは違うわけだ。だから1年経っても、実際には何も買わないような気もする。