last up date 2008.01.09
41-10
院の異常者
40-09や40-10で扱った大学院における異常者の動向について、追記する。
頭のおかしい行動をとる人間について記述する目的は、あくまで人間の在り方の幅広さについて記憶に留めておくことに尽きる。決して次に述べるような動機に基づくわけではない。つまり、おかしな人間の動向を書き立てることによって相対的に自分が優秀で正常な人間であるような気分になること、誰からも好かれず気味悪がられている人間を侮蔑し嘲笑して面白がって喜びを得たりすること、ましてや不愉快な人間と出会ったことを称して自分が特別な困難を受けた特別な人間であると喧伝することが、この記事の目的ではないことを断っておく。
・大学院においては院生に様々な学内バイトを斡旋される。職員に準ずる待遇の長期の事務職やシステム管理、教育・研究の補助など学内バイトは様々な種類がある。その中でもとりわけ試験監督バイトは、最も幅広く募集される。当該人物は、学部の期末試験の試験監督からパージされた。これは凄いことである。
試験監督にも様々な種類がある。中には、博士課程*年目のような古参の大学院生がとりまとめる試験監督もある。古参の大学院生の中には、学内バイトや教官の雑用などを精力的にこなしているうちに、職員よりも学内事情に精通し、教員や職員に顔が利くようになる者もいる。こうした「主(ぬし)」には、大学院課の課長は就任するとき必ず挨拶に来るほどである。こうした「主」が取り仕切るバイトは人間関係と己(あるいは各専攻の有力者の)の観察眼で集めるので、異常者は最初から排除される(光栄なことに、私もこちら側のバイトでは世話になっている)。
一方で、学部の試験監督は、事務方が直接掲示を出して集めている。そして「主」が集めるバイトと、学部の試験監督と同じ日になると、学部の試験監督の人材は枯渇する。そういうときは、「主」が声をかけないような、問題のある院生がバイトに集まることとなる。単純事務作業もできなかったり、トロかったり、対人関係に難があったり……。しかしそういう人間を排除していたら人間が集まらないので、どこかで誰かが歪みを引き受けて、仕事を回している。この学部の試験監督バイトからパージされるというのは、よほどのクズということだ。この10年間で2人目だという。
当該人物は、とにかく自分が偉大で優秀だと信じている。試験監督は簡単な仕事だと言えども、わずか3〜4人程度で数百人相手に答案用紙や出席名簿などを配布し回収するには、独特のノウハウがいる。それも見ていればわかるし、わからなければ先輩に聞けばわかる程度のことだ。それを当該人物はわからない。見て仕事がわかるほど頭の回転がよくない(この段階で「主」のバイトには呼ばれない)。わからなければ聞けばいいのに聞かない。自分がはじめてやるバイトについて、何もかもわかっているような態度をとり、しかも周囲の人間にやり方を「教えよう」となどする始末。さらには仕事の不都合や遅滞(ほとんどすべて当該人物に起因する)は、すべて他者がガキでトロくて頭が悪いせいだと信じている。だから何度やっても仕事を覚えないし、他者ともうまくいかない。
それだけに留まらず、試験を受ける学部生や事務にも絡む。他者の問題をあげつらうことが、年長者として仕事の出来る人間としての証明だとでも思っているのだろうか。本当に些細などうでもいいことで、学部生にめちゃくちゃなことを言って絡むという。この点については事務に猛烈な件数のクレームが来たという。
さらには事務に対して、「院生バイト専用の控え室を作れ」と要求した。もちろん休憩したりメシを食ったりする控え室として、空き教室が用意されている。つまり彼は、空き教室などではなく、「年に数度程度の試験のバイトのために、通年確保される部屋」をキャンパスに作れと言っているのである。常軌を逸した要求に対して事務が「考慮しておきます」ぐらいのことを言って処理したら、次のバイトのときには事務へ怒鳴り込んできたという。何で私の言うとおりにしなかった、と。もちろん「考慮します」といってもバイト専用の部屋なんぞ出来るわけがない。次のバイトの機会にそうした部屋が設定されなかったことに対し、彼は猛烈に怒り狂った。自分の「すばらしくも妥当な考え」に対して、他者は全面的に受け入れ、認める以外のことをしてはならないのだ。彼のコトバのとおりにしないということは、彼にとっては「すばらしくも偉大な自分」に対する挑戦であり、侮辱であるのだ。しまいには「事務は院生に奉仕するためにある」とか寝言をほざいたとか……。
結果、事務の募集する学部試験監督バイトには、申し込んでも決して受け付けられることはなくなった。
・この人物は、とにかく好戦的である。「自分への侮辱、挑戦」、あるいは「自分を軽視されること」を決して彼は許さない。自分は「偉大であり優れている」ので、愚かな他者は平伏して自分の言うことをすべて受け入れ、自分を尊敬するべきなのだ。
だから大学図書館でも意味不明なクレームの常連だという。さらには(元)指導教授の研究室の在室ランプを常に見張っており、在室になったとたんに怒鳴り込むようなことを頻繁に繰り返している。さらには学部の講義にも出席し、自分が頭のいいところを学部生どもに見せようと、そして教員に対する自己の優越さえ示そうと、講義の最中に突然意味不明な質問を繰り返している。これについても学部生からクレームが寄せられている。本当にどうしようもない質問を何の脈絡もなく繰り返し、それを軽んじられるとキレてくってかかる。「講義なんてものはたったひとりがピストル一発天井に発射しただけで崩壊する」と学部時代の平和学の講義で、テロについて説明した先生がいたが、彼のやっていることはまさにテロである。些細な暴力によって、人間が行う努力の成果や学習の機会は失われる。
・当該人物が(元)指導教官の研究室へ頻繁に押し掛けるのには理由がある。彼は、指導教官に破門されたのだ。
彼は外国語や学問の基礎知識はおろか、日本語の運用能力、読解力さえも滅茶苦茶である。高校も大学も中退を繰り返し、最終的には二部学部を出て、その後もいくつもの職業を猛烈な頻度で転々とした後、大学院に社会人入試で入った。中途退学も離職も蔑まれることではないが、限度がある。願書に添えられた履歴書を見た事務職員は戦慄したという。この人大丈夫か、と。それほどまでに猛烈な頻度である。また、夜間部も社会人入試もひとつのルートに過ぎず、もちろん立派に学問を為して自己実現のステップとすることは十分に可能だ。だが、殆ど学習せずに入学・卒業できるルートであることも否定できない。
特に我が大学院の社会人入試は、当初は「研究と関係のある分野の実務経験3年以上」という条件があったが、志願者の伸び悩みから「実務経験3年以上」になり、しまいには実務経験さえも問われなくなった。それでも夜間部(社会人課程)は定員を満たすことが困難で、来た人間はすべて入れている。だから事務が戦慄を覚えた履歴書でも入ってしまったのだ。定員を満たさないと国からの補助金を減額される上、定員を減らすことも難しいという事情が、夜間部の質を下げ、そしてこのような異常者まで入れてしまう結果になった。ちなみに一般入試の昼間部と社会人入試の夜間部とは、受けられる講義はまったく同一である。しかも当該人物は40近くになってまで親がかりなので(別に歳がいくつだろうと支援を受けて悪いことはないが)、私ら昼間の院生と同じ講義にも出るから厄介だ。
院生としての基礎学力どころか、「学部生以下」とさえ教官らに明言されている当該人物だが、アホだというだけの理由でパージはされない。当該人物は異常な自己有能感を持ち、それ故に教官や他の院生に牙をむき、恫喝めいた態度さえとり、ゼミや講義を破壊するからだ。アホなりに謙虚に勉強でもするか、黙って居眠りでもするかしていれば、少なくともパージはされない。パージをされるのは有害だからである。
当人はとにかく自分が偉大で優秀だと、一片の疑問の余地もなく信じている。教官よりも優れた見識を持ち、すばらしい分析を出来るとさえ信じており、それを隠さない。他者は彼の意見を全面的に受け容れ、認める以外のことをしてはならない。彼と異なる考え、発想が存在することそのものが彼に対する挑戦である。そして彼の偉大なお言葉に対して自分の愚かな考えを否定し、自己批判し、彼の考えを受け入れる以外の態度をとることは、畏れ多くも彼への攻撃である。そんな態度でいかなる議論を出来ようか。そもそも基礎知識もなく、言語運用能力も低く、他者は「自分に平伏するもの」としか捉えられない人間なので、「議論」として成立しない。あらゆる文脈も、研究者としてのゼミ員としての約束事も共通基盤も一切無視して、滅茶苦茶なことしか言わない。こんな人間がひとり発話するだけでゼミは崩壊する。
アホがアホなことを言うだけでもゼミは崩壊するのに、自分に最大限の敬意を払わないあらゆる人間(教員含む)を怒鳴りつけるとあっては、もう追放するしかない。自分の意見に訂正を加えた教員に対して、「俺は優秀な人間だ、その俺に対して意見するか!」という趣旨のことを怒鳴りつけ、異常者に相対して黙り込んだ教員を見て、「先生も反省したようだ」と言うような異常者、追放するしかない。
当該人物はあらゆるゼミで騒ぎを起こしたが、指導教官のゼミでは指導教官は黙り込まなかった。自分は優れている、故に自分に従わないとは何事だと怒鳴る異常者に対して、お前は基礎学力もなければ、研究計画さえも進んでいないようなクズだ、ここにいる資格はないと指導教官が怒鳴りつけ、30分以上に渡って怒鳴り合いが続いたという。この場には留学生も同席していたが、あまりの凄まじさに震え上がったと留学生は述懐している(ちなみにこの留学生は、国費派遣の軍将校である。そんなツワモノが震え上がることからも、いかに常軌を逸したやり取りだったのか想像が出来る)。
当該人物は「こんなレベルの低いところで、この私が収まる訳がない」みたいなことを言ってゼミを飛び出した。そして何故先生に怒鳴られたかについては、「自分があまりにも有能だから、先生に嫉妬された。男の嫉妬は怖い」と大学院棟で会う人間に吹聴して回っていた。正気の沙汰じゃない。お前がアホで態度が悪いから怒鳴られただけだろう。ちなみにこの指導教官は温厚な先生で、決して怒鳴ったり、怒ったりする人ではない。面倒見がよいわけではなく、頭の悪い学生には指導の手を抜くことはあっても、わざわざ怒鳴ったり怒ったりしてエネルギーを使うようなことは決してなかった(これは古参の大学院生の間で定説である)。それが猛烈に怒鳴ってパージするなんて、ただごとではない。
当該人物は新しい指導教官を探して回った。5人に声をかけ、全員に断られたという。指導教官の変更でこんなことは、ありえないことである。当該人物のゼミや講義における破壊活動とも言える傍若無人ぶりは有名であり、こんな異常者を引き受ける人間など存在しなかった。新しい指導教官が見つからなかったということは、書類上は指導教官は変更してないことになる。事務課へ提出する指導教官変更届には、当然のことながら新指導教官のサインと捺印が必要だからだ。そして修士課程を修了するためには、指導教官との遣り取りが不可欠である。
だから彼は指導教官の部屋に押し掛けるのだ。しかし指導教官はもう関わる気はないし、そもそも当該人物は指導を受けられるほどの成果を上げていない。文系大学院は自分で研究計画を立てて、自分で資料を集め、自分で資料を分析し、自分で仮説を立てて論理展開し、自分で論文を執筆するところだ。指導教官は何かを行った「成果」に対して助言はできる。しかし「成果」のない人間に何を言えようか。しかも自分が天才だと信じて疑わず、自分の考えを全面肯定しないと教官でもクズ扱いして怒鳴りつける人間に、どんな指導が出来ようか。この先生はまったくもって気の毒である……。
・当該人物は、とにかくあらゆる不都合をすべて「他者の悪意」か「他者の無能」に帰結させる人間である。単純に自分がアホだから意見を少し訂正された、という程度のことに対し、侮辱された、優れた自分を認めず挑発したとして、猛烈に怒り狂う人間である。目の前で起きた不都合に対しては、このように怒り狂う。だが、何も起きていないことに対する被害妄想も強い。
散々騒ぎを起こしたので、当該人物からは教員も学生も遠ざかった。個人的にも、女性には少し感じがよい対応をされただけで明日にでも結婚しそうな扱いをし、男性にも多少挨拶されたりメールに返信が来た程度でも大親友扱いをした。しかも、会話やメールの相手をする他者のすべての言動を「相手は自分の偉大さを受け入れ、自分を尊敬している」としか見なさないのだから、すぐに問題が起きる。些細な意見の相違など、自分を軽んじる(と彼が感じる)ような言動を受けると怒り狂ったし、そうした問題が起きなくとも「自分への尊敬、自分への承認」を麻薬のように欲して異常な頻度で深夜までメールや電話をかけ続け、気味悪がられて距離を取られた。当該人物からには、最後には誰も寄りつかなくなった。孤立すると、被害妄想をふくらませるばかりである。大学院棟で知っている顔を見ると、とにかく被害妄想をまくし立てる。
とある先生がサバティカルでアメリカへ渡られた。当該人物はこの先生の門下でも何でもない。むしろ当該人物は先生のゼミに1〜2度出席して、議論の土台そのものを無視した支離滅裂なことをまくし立て、先生は辛抱強く丁寧に、こうした前提に基づいて議論をしようと説明を重ねたのにもかかわらず、当該人物は同じことを繰り返すだけ繰り返して、しまいには「こんなレベルの低いゼミにいられるか」「先生は私が優秀だから目の敵にしている」「所詮女の教官はヒステリー持ちだから学問など出来ない」のような捨てセリフを残して消えた程度の関係でしかない。
結論から言うと、先生の渡米に当たって送別会は開かれなかった。だが当該人物は、先生の送別会に何故自分は呼ばれなかったのか、と先生の門下の院生に執拗に執拗に絡み、脅迫じみたことまで言い残した。送別会はなかったと何度言っても、「本当はあったのに隠している」としか思わない病理。一介の修士課程学生に過ぎず、先生との関係はゼミで暴言を吐いて出ていった程度のものにすぎないのに、送別会に自分は呼ばれて当然と思う病理。そして偉大な自分が呼ばれなかったのは、自分の能力に嫉妬した頭の悪い20代のガキの院生どもが結託して、自分を排除する悪辣な企みがあるに違いないと思い、そうした妄想に基づいて他者に剥き出しの悪意をぶつける病理。恐ろしい。
とにかく自分の不都合は、自分の無能や悪行のせいだと決して思わない。すべて常軌を逸したこじつけで、他者の劣等や悪意に結びつけ、それを信じ、吹聴する。私自身も、彼にはいろいろと一方的な恨みを買っているが、本当にどうしようもない理由で恨まれている。
一例を挙げると、彼は私の指導教官のゼミでたわけた翻訳を持ってきた。単語レベルで訳して、いくつかの単語の意味から勝手に想像ででっち上げただけの代物であり、破綻している。一例を挙げると、riseの過去形のroseを「バラ」と訳して、周囲の単語を混ぜ合わせて、無理矢理「アメリカのバラの輸出が倍に増加した」と訳するようなことをした。何故、国際政治学書に突然「バラ」が出てくる。そもそもroseを「バラ」と訳したら動詞はどうする。「増加した」も「倍(twice)」という単語から想像しただけで、roseから導いたわけではない。こんな調子が延々と続くのだ。ゼミの先生は怒り狂い、徹底的に突っ込みを入れた。先生はひとつひとつの単語や表現を問うたので、当該人物は反論も反発も出来なかった。
当該人物は、「自分は英語が出来ない」とも「英語が出来ないから怒られた」とも決して思わなかった。「晴天のせいで怒られた」と彼は見なし吹聴した。このことは同期が知らせてくれた。なんでも、「晴天は昼間部の院生なのに発表の日取りが遅いから、先生が不機嫌になって、自分は八つ当たりされた」と。意味がまったくわからない。私は異常者の心理を多少は想像が出来るつもりだったが、何を言いたいのかさっぱりわからない。とにかく自分が先生に怒られたのは、自分の能力のせいではなく、たまたま先生が不機嫌だったからであり、先生が不機嫌だったのは晴天のせいだ、と言いたいのだ。当該人物は、自分の能力や人格を絶対に問題視しないのだが、こんな滅茶苦茶なこじつけを本気で信じているところが恐ろしい。同期の話によれば、怒りを顕わにして相当悪し様に罵っていたという。
「自分はたまたま夜間部に入ったが、本来は昼間部の院生のレベルを超越している」と吹聴していた人間が、なぜここに至って昼間部という区切りを持ち出すのか。そして私の発表日が遅いことで何故先生が怒るのか。理解不能である。ついでに言えば、私は指導教官から最初の発表を命じられ、最初に発表したから一周して学期の最後にも発表日が回ってきたというだけのことである。
また、別の先生のゼミでは、先生は雑談で「最近の院生はレベルが低い」と口にした。自己有能感のカタマリである当該人物のことを暗に批判したのかも知れないし、ゼミの出席者を奮起させるためにそういうことを言ったのかもしれないし、単に誰ということなく昨今の動向として口にしたのかもしれない。文脈がよくわからないので何とも言えない。だけれども当該人物はエキセントリックな解釈をした。
大学院棟である院生と出くわした当該人物は、口にした。「**先生はお前と晴天のことをレベルが低いと言っていたぞ。お前らはもうお仕舞いだ」。漠然と批判された「最近の院生」に自分が入っていないと解釈するのは、まあいい。しかし、何故「最近の院生」というコトバが具体的な2人のことを指したと解釈できるのか、理解できない。ちなみに私はその先生とはまったく面識がない。ゼミや講義に参加したこともなければ、中間報告会などで顔を合わせたこともない。私が国際政治系なのに対して先生は行政系なので、接点が全くないのだ。私は自分をレベルの低い院生だと思うが、私が先生に名指しで批判されることはあり得ない。ただ単に、私ともう一人の院生に対して(一方的な被害妄想によって)当該人物は怨念を抱いているので、漠然とした「最近の院生」への批判が、気にくわない人間への批判に聞こえたのだろう。人間は見聞きしたことを、自分に都合良く心地よく解釈したがる側面を持つが、これは常軌を逸している。
ちなみにこの話を聞いた先生と親しい院生が、先生に当該人物についてさりげなく聞いたが、答えは「学部生以下」とのことだった……。
当該人物は、高校も学部も仕事もおそるべき頻度で短期間で転々とし続けた。おそらく最後はいつもこんな感じになっていたのではなかろうか。段階を名付けるのならば、最初は異常な自己有能感を憚ることなく口する喧伝期。次は、自分を尊敬しない他者に怒り狂い、あるいは麻薬的に自己への尊敬を求め続けて気持ち悪がられる衝突期。そして誰もが離れて孤立し、周囲への怨念をふくらませる被害妄想期。この最後の期間は、他者と直接衝突して罵り合うようなこともなく、一人で憎悪をため込むので、暴発が怖いですよ。被害妄想に基づいて脅迫までされたら、おちおち大学院棟も丸腰では歩けない。平均的な男性ならば簡単に張り倒せそうな貧相な男なのだが、だからこそ一撃必殺を狙って包丁で不意打ちでもされそうだ。研究室には防犯用に短い竹刀まで用意したほど。
悪質なクレーマーに対しては、企業は法的・物理的に防衛体制を整える時代である。一応消費者でお客様だからと、頭を下げて無理難題を聞いてお引き取り願っても、ますますつけあがるだけである。そして担当職員個人が異常者に相対してすべてを抱え込み、すべてに堪えて処理するようでは、職員は疲弊するし、悪質クレーマーは特定個人へのストーキングや脅迫、さらにはむき出しの暴力を振るい出す。だから組織は悪質クレーマーに対しては、組織として対処しなければならない。
しかし大学という場所は、こうした陰湿で執拗な暴力にへの対応体制が出来ていない。アカデミック・ハラスメントなどというコトバがあるように、大学院生が教官の有形無形の暴力に晒され得る構造が温存されやすいことはしばしば問題視される。しかし一方で、異常な学生から教官・職員・他の学生への暴力・暴言・嫌がらせに対しては、何の対策も警戒も語られていないような気がする。このままでは、学生が教官を惨殺するような事件が起きるのではなかろうか。当該人物が何らかの逆恨みから包丁を持ち出しても、私も他の院生もまったく驚かない。いやはや。
今回の要点:大学における異常者は、教員の仕事と他の学生の学習機会を簡単に破壊する。
注意点:上では1人の異常者を取り上げたが、彼ほどではないまでも、我が大学院には異常者が何人か存在する。シャバの感覚とかけ離れた学者バカとか、コミュニケーション能力に難があるとかいうレベルではなく、病理的ともいうべき人間が……。その背景として、大学院の定員を増加させる昨今の潮流があり、定員を満たさなければ文科省からの補助金を削減され、しかもその額は学生数に依って決められるという制度がある。
記述日:2007.10.28
41-09
勘違い?
近年、「勘違い」という語の意味がやや変わりつつある気がする。「勘違い」という語の、現在の辞書的な意味は「記憶や認識の錯誤、錯覚」という程度でしかない。しかし昨今耳目にする用法としては、「自分の行為や言動が滑稽であったり、愚かだったりするのにもかかわらず、行為や言動を素晴らしいと他者が認めると思い込んでいること」というものがあるような。
コトバは変わるものなので、意味合いや用法がやや変化していることそのものについては、何の感想もない。ただこの用法には閉塞感を覚える。対象たる人間の行為・言動が、万人にとって「滑稽、愚か」に見えると決まっていて、そして当人は自らの行為・言動を万人が「すばらしい」と認めると思っている、という前提の下で用いられるコトバだからだ。自分個人が他者を「滑稽、愚か」と思うに留っているわけではなく。
このコトバを使う人間が「勘違い」と認定呼称するものは、「勘違い」した愚かな奴を除いた万人にとっても「勘違い」と見えるに決まっている……という発想を感じてならない。これは、この世に「適切な価値判断」や物事から受ける「正常な印象」がただひとつしか存在せず、それに外れるものを全て「異常」とする、危険な発想であり危険な感覚だ。
このコトバは服装など、若者文化における個々人の有様を嘲笑するために発生したと思われる。しかし今やそれに留まらないようだ。ひとつ例を挙げるが、とある知人が私のボロアパートに来たとき、このコトバを近所の飲食店に対して口にしたものだった。
我が家の近辺は開発中である。駅から私のアパートがある宅地の間には、森を伐採し、崖を削り、地面を均している広大な工事区画がある。駅から歩いていると、何もない赤土と砂利ばかりの荒野を突っ切る一本道を歩いているような気がしてくる。そんな中に、一軒だけうどん屋がプレハブの仮店舗で営業している。知人はいったものだ。「勘違いうどん屋だ」と。
荒れ野の中に一軒だけ安っぽい店を出して、客など来るわけがないのに、売れると思っている愚かなうどん屋だとでも言いたいのか。この区画は確かに何もないように見えるが、駅と住宅地の間の幅わずか数百メートル程度の再開発地。駅からでも住宅地からでも、容易に訪れることが出来る。その上、広い駐車場があるので、車で来ることは容易い。都市部のわずかな空白に店を構えているといっても、何が滑稽なものか。
さらに言えば、ここが開発中なのはブルドーザーが作業する様や、マンションが建ち並ぶ絵のついた「新しい**タウン」みたいな看板を見ればわかるだろう。開発されれば、一気にここは新興住宅地の真ん中になる。十分商売になるじゃないか。さらに言えば、仮店舗なのは見ればわかるだろう。大きく書いてあるし。もともとここにあったうどん屋が宅地造成で取り壊され、とりあえず仮店舗でも営業を続けているだけだ。仮店舗ということは、いずれ新規建設するんですよ。
荒野の真ん中で、プレハブのうどん屋が一軒だけたたずむ様子を見て、機械的に「勘違い」と判定するなど、それこそ勘違いも甚だしい。自分がちょっと滑稽だと感じたら、安易にその感覚に基づいて「ダメな存在」だと決めつけ、バカにする。しかも、そうすれば面白いネタになると思っている。「滑稽」という感覚と「商売にならないダメな店」という認識を、他者と共有できると思い込んでやがる。勘違い甚だしい。商売になっているのも、商売になりそうなのも、見ればわかるだろう。考える必要もない。それなのに、一瞬の印象で「ダメ」だと決めつけてしまうんですね。
この意味における「勘違い」なんてコトバは、安易に使いたくないですわ。
今回の要点:「勘違い」というコトバは、他者を愚弄するだけに留まらず、他者を万人共通の規準において「異常」だと判定する危険な発想に基づく。
注意点:このコトバはもはや「勘違い」本来の語義を完全に喪失して、「ダサい」とか「ダメだ」とかいう程度の意味に終始するのかもしれないが。
記述日:2008.01.09
41-08
ストレスとシニシズム
学部を出てからは知人友人の中に、他者のストレスを嘲笑すれば自分が相対的に立派な社会人たれるかのような態度を取る奴が、何人か出てきた。これは、私の嫌悪する態度のひとつだ。もう1つ蛇蝎のように思っている態度として、バラエティー番組みたいに、共通の約束事として自分や相手のキャラクター付けが為されているかのように振る舞い、それに基づいて決まり切ったオチを述べればいいという様な態度もあるが、これと他者のストレスの矮小化はしばしばセットにして行われるからどうしようもない。久々に旧友と会って最も哀しくなる変貌である。こういう人間とはだいたい手を切った(切られたのかもしれんが)が、キリがない。
世間話でどこの誰がどうしたとか、そんな話なんかどうでもいいのに、いちいち「大したことがない」と言いたがるのはどうしたものか。自分の方がより強いストレスを受けつつも、それに打ち克っている強靱な人間だとでも言いたいのか。ちょいとした生き甲斐やよりよい生活環境への理想や希望について、それを無価値だとか青臭いとか言って冷笑すれば、自分が超然とした人間でいられるとでも言いたいのか。無条件で自分がsomething(一角の人物)だと思っている10代や20そこらの時分ならばともかく、30近くなってまで自分が何にでも堪える強靱な人間だと主張し続けるだなんて、恥ずかしくないのかね。それともそう思い続け、示し続けねばならないという、強迫観念でもあるんだろうか?それに、価値や理想を「青臭いもの」として冷笑するのは、そうすれば「ものを知った大人」たれると錯覚しているのと同時に、最初から期待しなければ失望しないという自己防衛に過ぎないような気もするが。
さて、何をストレスと感じ、どういう条件においてストレスが過負荷となって、やがて中枢神経にダメージをもたらすかは、一筋縄ではいかない。他者にとっては「大したことがない」ように見え、本人にとってさえ「小さな問題」のように見えることとて、繰り返しや過重によっては大きなダメージとなりうる。ひとつひとつは「小さな問題」であっても、組み合わせやタイミングといった条件によっては大変なストレスとなるし、より大きな負荷が掛かったときに対処するだけの気力や鈍感さや意志を失わせてしまいかねない。
「小さな問題」は、本人さえも気づかないうちにダメージを深める。それは、「小さな問題」には、他者はなかなか理解や共感を示さないからだ。抱えている問題に対しては、友人や家族とちょっと話して、形だけでも「大変だな」と軽く相づちでも打ってくれれば、それで幾分かは楽になる。しかし「その程度で大したことない!ガタガタ抜かすな!」と突っ張ねられたら、話は変わってくる。他者に苦しみを理解されないことそのものがストレスとなり、さらには自分は「小さな問題」を乗り越えられないどうしようもない人間だとして、自信と自己肯定をも失わせる。こうした問題の1つ1つは小さくとも、悪条件が重なればとてつもなく大きなハンマーとなる。また、逆に言えば、大きな負担を抱えている場合とて、適度にねぎらわれ、苦労に対して理解を示されれば、ある程度保つのかもしれない。
その点、「どこもつらいは同じ」「仕事ってのはこういうものだ」として、ストレスを「どこでも同程度かかるもの」として一般化することは危険だ。ましてや「世の中とはつらいものだ」というシニシズムで、何もかも簡単に片付けるのは暴力的でさえある。何をストレスとして感じるか、いかなるストレスを蓄積してしまうか、そしてどのようにストレスを積み重ねて過負荷として限界を超えてしまうかは、個々人の資質と環境、そして負荷の掛かり方のタイミングといった諸条件によって全く異なってくるからだ。
そうした「些細な条件」のうちで、比較的ウェイトが大きいと思われるものは、話し相手が存在するかどうかだ。必ずしも悩みや愚痴を話さないまでも、くだらないことを気兼ねなく話せる友人や家族の存在は、個々人の運命を左右する。自分が好きなように気軽に話せる場は、自分が他者に認められ受け入れられているという感覚をもたらす。「認められる」というのは「いい奴だ」「出来る奴だ」と讃えられることではなく、せめてそこに存在することを認められる、という程度のことでしかない。人となりに対して、最低限の肯定をされる場が、私的な人間関係である。
しかし、生まれ育った土地や学生時代を送った土地に長く暮らし、いつでも旧友や親類が豊富に周囲にいる人間には、こうした「存在の肯定」はあまりにも当たり前のことで、「認められる」「受け入れられている」などと言ったら大仰と笑われることだろう。仕事では、無責任な上司や暴力的な先輩に苛まれ、なかなかうまくいかなくても、家族や友人と恒常的に接していたら、精神的に追い込まれる蓋然性は私的な人間関係がゼロの場合よりは低いはずだ。もし1人で異郷に飛ばされ、しかも生活習慣も言語も知的レベルもまったく異なる人間の中で暮らしていたら、話は違ってくる。
異郷では往々にして、異質な人間に対して、踏み絵と自己批判を強要する。公私問わず、同化しない人間を決して受け入れないし、認めない。この暴力は必ずしも悪意ではなく善意に基づくのが、地方の怖いところだ。もちろん仕事に就けば、職業人たることを求められ、組織の思想や価値観、習慣を受け入れねば組織では生きていけないが、このストレスにプラスして、土地の思想や価値観、習慣をも受け入れねばならず、二重のストレスを負うのが異郷に飛ばされた人間の辛さだ。公私問わず同化を求められ、しかも絶対不可能な深度でそれを強要され続けると、それだけでアイデンティティを引き裂かれて自己肯定を失う。こんなときに、少しくだらない世間話や趣味の話を気兼ねなく出来る友人が身近にいたら、それだけでもある程度は救われるかもしれない。
このストレスを経験したことのない人間は往々にして、孤独の恐ろしさや友人や交友関係の重要さを説いたら青臭いきれい事を言っていると称して笑う。例として私の体験を出すが、私はまさにこのストレスでどうしようもない程のダメージを受けていた。
もちろん「異郷に1人でいたこと」が全てのストレスではない。はじめて勤め人となったことそのものによる戸惑い、単純に見知らぬ街での勝手のわからなさ、誰もが18で車を足代わりにする社会でペーパードライバーだったこと、職場の仕事が大学時代の武道部よりも杜撰だったこと、不正や怠惰が横行していたこと、学歴の面でも私があまりにも異質だったこと、同僚の多くが機能的文盲でオーラルコミュニケーションも奇声やごくごく短い単語でしか為されないこと、中学レベルの漢字や基礎知識をろくに習得していない人間が大半を占めていたこと、公私がまったく区別されずあらゆる生活で同化を求められたこと、必要最低限の業務連絡さえまったく不徹底で連絡を取り逃さないためには私的なあらゆる会合に出る必要があったこと、職場の未来がなさそうで、かつ実務経験にもならなさそうだったこと……などの様々な、個々には対処可能な「些細な問題」のうちの1つに過ぎない。しかし「異郷で1人だったこと」は小さからぬ問題であり、他の様々な条件と絡み合って、本当に打ちのめされる要因の1つとなった。
当時は札幌で給与所得を得るようになっていたが、何一つ使い道もなかった。休日は何かしようと思いつつも、何も出来ずにいた。何人か友人がいればそれで何事も解決したわけではないが、それでも鬱屈した日常が少しはマシになったのには違いない。少し話せる人間がいたら、精神の過負荷は多少は緩和されていたはずだ。この条件がひとつクリアされただけでも、他のすべて悪条件を堪えてやっていられたかもしれない(それがよかったとは決して思わないが)。
だから、関東に戻って旧友と再会したときに、私は言ったものだった。別に愚痴を言ったわけではなく、単純に再会を喜んで。「札幌ではカネがあっても1人ではろくに使い道もなかった。やっぱり友人は大切だ。カネでは買えないものもある」みたいなことを。そしたら笑われたものだった。多分、「カネでは買えないものがある」の部分に対してのみ、機械的に反応して、約束事でもあるかのようにそれに対応したオチを述べただけなんだろうけど。
しかし「カネで買えないものがあるとは青臭いことを。俺が今100万円Iさんからもらって、Kと手を切れと言われたらそうしますよ」と言われたことには、さすがにウンザリしましたわ。私のコトバを笑われたことにではなく、東京に残って、頻繁に学生時代の連中と飲んでる連中にとっては、交友関係のありがたみなんて空気程度のものでしかなく、それゆえ孤独のストレスなんかは決して理解されないと思ったことに。そして、何でもバラエティー番組みたいに、定型的なオチをつければいいと思っている根性に。しかもそのオチが安っぽいシニシズムに基づいているとくれば、もう交友関係を保つ理由はありませんわ。
友人は大切だけれども、なんでもかんでも軽薄な笑い話にし、しかも判で押したようにシニシズムに基づいてオチをつけるような人間とは、まったくもって付き合う価値はないですから。
今回の要点:小さなストレスとその積み重ね・組み合わせを甘くみるべからず。
注意点:別に他者の吐露や愚痴に対して、何でもかんでも紳士的に聞けと言っているわけではない。ただ、相手と友好関係を保ちたいのならば、他者の問題を矮小化し、シニシズムを気取って嘲笑するのはよろしくない。
記述日:2007.10.23
41-07
貧困層の「断種」
学部の後輩と遣り取りしている文書から。
送るタイミングを逸したので、ここに再利用。
文脈は、「貧困層は、所得の低さと好転する見込みのなさから、子孫を残せない」というのが後輩との共通認識であり、「少子化は解決されないから、単純労働者として移民を受け入れざるを得ないだろう」としている。そこで後輩が、「移民を受け入れるのならば事前に法整備をすべし」と述べるとともに、「貧困層が子孫を残せないのは、恣意的な『断種』」なのでは、と思い切った仮説を立てた。それへの返答である。
「単一民族」幻想の強固な日本においては、移民流入に際して北米・西欧以上の軋轢が起きるでしょうね。「単一民族」幻想に基づく民族的排他性もあり、治安や雇用についての不安もあり、「移民」を禁じ手とする意識が根強く移民の法整備はさっぱり進みません。が、すでに労働市場の逼迫は多くの労働力を国内に引き入れてしまっています。
その形は、単純な不法就労だったり、研修制度の悪用だったり……どちらにせよ、外国人労働者の権利はまったく守られず労働力を搾取され、それが「コスト削減」としての外国人雇用を促進させる皮肉な結果につながっています。
こうした実情を踏まえると、外国人労働者の権利擁護から犯罪人引き渡し協定に至るまで、法制度の不備は本当に危機感を覚えます。
その一方で、日本人の「代替可能な弱い労働力」は、少なからず移民に職を奪われることでしよう。例え失業しなくとも自分のルサンチマンを、搾取者や権力層ではなく、最も立場が弱い「新しい日本市民」に向けて爆発させることは容易に想像できます。
さて、「貧困層」を排除すべき異質な存在と見なす発想は、アメリカの中間層〜富裕層に根強いですね。「断種」はともかく、「排除」の願望は強烈です。中間層は公共交通機関を乗り入れさせない郊外に、富裕層はゲートコミュニティに住んで、「貧困層」を自分の生活から排除しています。日本においても「総中流」幻想の崩壊に伴い、「同じ日本人」であろうとなかろうと、「貧困層」排除の願望は強まっていくような気はします。
中間層以上は貧困層全体を疎外し、「日本人」貧困層は「新日本国民」貧困層を迫害すると、「新日本国民」貧困層はやはり手近な「日本人」貧困層に報復し……中間層以上は高みの見物。そんな未来もありそうです。
ただ、貧困層における結婚・出産・育児・教育が難しい状況を固定化し、「断種」するという発想は、政策決定者やそれに圧力を掛けられる者が恣意的に行うとは思えませんが、今後そうした発想に魅力を覚える人々は増えそうな気はしますね。
今までの、さほど階層分化が進んでいない(ような気がする)社会においても、階層間の出生率の差を危惧する声は、ホワイトカラー層にはありました。高等教育を受け、ホワイトカラーとして働く層は、自己実現に時間とコストをかけるため、あまり子供を作らない。一方で、(学ぶチャンスがあろうがなかろうが)学ぶことに不熱心な層は、ガキの頃から考えなしにガキをこさえ、若くして結婚してさらにガキをこさえたり。そうした様を見て、今後「知的な人間」はますます少なくなり、「アホな連中」ばかり増えていくのではないか……と。異質な人間への恐怖と悪意に満ち、世代間階層移動の可能性を完全否定した、PCに引っかかる発想ですが、こういう発想は少なからず耳にしてきました。
今後ますます階層分化が進むと、「貧乏なやつら」が子をなし、(世代間階層移動をすることもなく)増加することを恐れる人が増えても、なんら不思議ではありません。ガキのうちにガキを作るような層を「思慮の足りない、無軌道なワル」として眉をひそめる人は少なくないとしても、現在、貧困層に追いつめられている層は、「たまたま、就職がうまくいかなかった人」と多くの人は見ているでしょう。けれども、時間とともに階層分化がより大きくなり差違が明確になってくると、低所得者を警戒する意識が芽吹くことでしょう。
だからといって、低所得層の育児支援や出産援助をするなという人はいないでしょうけど……。しかし「貧困層の増加」を真実恐れるのならば、教育支援を徹底して行うべきなんですがね、理想としては。もし既存の低所得者が子孫を残せず死んだところで、いくらでも貧困層は補充されるので、「断種」の意味はまったくないような気もしますが。
今回の要点:日本も階層分化が進むと、異質な層への恐怖が極大化するかも。
注意点:私や後輩が、「貧困層を断種しろ」といってる訳ではないですよ、念のため。第一、私も後輩も、今後どうなるかはわかりませんし。
記述日:2007.08.31
41-06
産業社会における人的資源
1,それなりに読み書き計算が出来る程度になくとなく学ぶ。
↓
2,なんとなく会社に入る。
↓
3,丁稚奉公みたいなことからはじめ、ゼロから仕事を教えられる。
また、疑似ゲマインシャフトに組み込まれ、「最年少の家族」としてその一員となることに至上の価値を置かれる。
↓
4,仕事に徐々になれていき、知識や技能を身につけていく。
一方で、疑似ゲマインシャフトの中での位置も兄貴分・叔父貴分として位置を高める。
↓
5,それなりに昇給し、(制度上、昇進するかどうかは別として)疑似ゲマインシャフトの中ではそれなりに敬意を払われるようになる。
つまりマジメに働き、組織に忠誠を誓い、血族であるかのように馴れ合っていれば、仕事を覚え、そこそこ豊かになり、それなりに尊敬される立場になれる、という期待が産業社会においては存在した。自己実現の見通しが立っていた。だから困難や理不尽に対しては、堪えることが一番割のいい博打だった。
終身雇用と年功序列の中身は、疑似ゲマインシャフトである。マルクスがいうように、原始的な社会はあらゆる人間関係が「血族」になぞらえられる。契約関係をも「血」に見立てたのが日本の伝統的企業だ。これは極めて結束が強く、適応できれば居心地がよく、安心である。
特にOJTなどと呼ばれる先輩から後輩への指導は、(短期で人が入れ替わる職場よりは)親身になる。自分も後輩も、長年同じ会社で働くと思えば、手は抜けない。これがテキトーに学校を出た若者が、一人前の勤め人として鍛え上げてきた。
だがポスト産業社会においては、それが崩れている。半端に産業社会の遺構を残し、半端にポスト産業社会モデルに革新した鵺的な企業も少なくない。過渡期なのかも知れない。だからこそ、多くの若者がここそこで躓き、そして取り返しがつかないである。すでに産業社会のような自己実現プロセスが期待できないのにもかかわらず、産業社会におけるような同化と辛抱が処世術の全てであるかのように言う人間も多く、それが一層、難しい立場の若者達を苦しめている。といったところで、どうしようもないんだが。
今回の要点:産業社会では、一場所で辛抱し同化すれば、自己実現が叶ったが、それは過去の話である。。
注意点:中途半端に産業社会の発想や制度は残っており、それが時代が変わったという判断を妨げている。。
記述日:2007.08.31
41-05
正しい
自分の行動や思考が正当/正統/適切/妥当/合理的だ、と思いたいのは人間のサガだ。真実、自分が間違っていると判定を下していては、何も出来ない。また、他者とのコンフリクトや意見の不一致の際にも、自分の利益と尊厳を守る為にも、所属する社会の秩序を維持するためにも、自己が信じる正当性を安易に引っ込めることは出来ない。だけれども、「正しい」という判断もまた、多くの他者認識に基づく自己認識と同じように、「自己の正しさ」ではなく「他者の誤り」をもってのみ確保されるとする安直な思考様式が跋扈しているのがなんとも…。
そして、自己の「正しさ」を示し確認する為に、他者を苦しめるという方法がしばしばとられる。自分の言動によって相手が嫌な思いをする事態は、確かに相手の罪過や劣等を指摘したときによく発生する。だけれども、相手の心を動揺させることと、自己の「正当性」や「優位性」は何の関係もないのは言うまでもない。しかしそれがわからない人間はいるものである。なぜならば、自らの手によって相手を失望させ、落胆させ、悲しませるという行為そのものが、快楽を伴うからだ。相手を自らの手で動揺させることは、相手を「劣者」と実感し、相対的に自己を「優越」と感じることが出来るからだ。この「優劣関係」は、もちろん自己が「正しく」、相手が「誤っている」と見なす源泉となる。「優位」と「正当」を自らに覚えるというこの麻薬的快楽の前には、合理的な判断、妥当な判断など吹っ飛ぶんでしまう。
その為、何の妥当性も合理性もなく、ましてや正当性も存在しない言動でもって、とにかく他者を苦しめさえすれば「指導」や「教唆」をしたことになる、と本気で信じこむ回路が脳内に出来てしまうことがある。その結果、何らかの権力関係に基づく上位者が、自己の言動に何の公益性も妥当性もなくても、とにかく相手の表情を曇らせ、相手の期待を挫き、相手の心を掻き乱せば、それで自己の責任を果たしたと思い込む事態が生じてしまう。さらには、とにかく他者を苦しめようとするあまり、明らかな虚言を弄す事態にも発展する。規範や慣習について虚言を弄し、技術や手順について虚言を弄し、公益を損ない職務を妨害する者まで実在する。いやそれどころか、権力関係でも上位下位でもない人間が、何の権限も正統性もなくして、自己の尊厳と快楽の確保ために、徒に他者に悪辣な言動を為して、しかもそれでいて自己が正しい、適切なことをしている、組織や社会、そして相手に資する有益なことをしていると思い込んでいる事例にさえ出来わすことも。
人間の脳回路は、複雑なように見えて、実はかなり単純なのかもしれない。
今回の要点:他者を動揺させることと、自己が「正しい」こととは無関係である。
注意点:何を言われても動揺も萎縮もせずにいると、相手にコトバでどう返そうが返すまいが、動揺も萎縮もしないという点のみを根拠に「自分をいつでも正しいと思っている、人の言うことを聞けないダメな奴だ」と見なされたりも。
記述日:2007.06.16
41-04
シーソーによくなぞらえられるが
極めて陳腐な表現なのは百も承知の上で書く。人間の他者認識、ならびに他者認識に基づく自己認識は、シーソー的な感覚に大きく依拠する。認識の根元にあるのは感覚であるが、他者への感覚はシーソーという遊具と同様に上か下かという極めて単純なものである。水平は存在しない(無関心という状態はありえるが)。だがこんな単純な感覚のみに基づいて他者認識・自己認識を行えば、大変なことになる。
例えばこの感覚に従えば、他者から注意を受けるということは他者が「上」に立ち、自己が相対的に「下」になるということである。もちろん注意をする側は、少なくとも注意をする瞬間において、焦点となる問題について、自分が相手よりもマシな判断をしているという自負はある。
だが、ここで相手が「上」に立とうとしていることへの不快感、自分が「下」と見なされる事への抵抗にこだわることは愚かだ。愚かなのだが、ときとして人はこの単純なシーソー的感覚のみに基づいて、注意の内容や自己の振る舞いを一切顧みず、不快感を顕わにする。そして不快感を回避する為に、その場に於いてはまったく関係ないことによって相手を貶めて相手を「下」に見ようとし、「下」の人間がするのだからと注意の価値・意義を否定する。小学校で、他の学童の悪行を注意しようとする学童に対し、「お前だって〜しているだろう!」「〜のくせに!」のようなコトバを浴びせて、まったく注意の内容を意に介さないのは、とてもよく見られる光景である。
しかし年齢を経て成長するに従って、このような単純な感覚だけで物事が図れるわけでもなく、他者や自己を認識する為には様々な基準があることを人は学んでいく。が、しばしばシーソー的感覚に囚われたままの人もいる。冷静な判断の出来る大人でも、精神的に余裕を失い疲労すれば、原始的な感覚のみに基づいて幼稚な考えをしてしまうこともあるだろうけれども。
また、前述の通り注意という行為は、自己が「上」で相手が「下」という感覚に基づくが、この感覚を味わうために濫用が行われることもある。自分はすばらしい相手はクズであるという優劣関係を確認することは、麻薬的な快感がある。その為に、まったく妥当性・合理性がないことについて、注意・叱責・罵倒したがる人間もまた、しばしば目にする。 「自分は優れており、お前はクズだ」という発想は、誰もが好む為に、根拠に乏しい場合が多い。そうした場合、他者に対する優越は常に確認し続けなければならず、また優劣関係を他者にコトバや行動で示すことは恐るべき快楽である。その為、妥当性に欠ける注意・叱責・罵倒は、麻薬のように繰り返される傾向がある。
特に、運動部や年功序列の企業といった、年齢や在籍期間に基づくヒエラルキーが存在する場所では、人格・能力に優れない人間でも自動的に「下」の立場の人間を得る。その際、自分の努力や才能によって「下」の人間から尊敬や評価を受けられない人間は、必ず現れる。そんなときに、自分が「上」だと示し、他者が「下」だという関係を確認する為に、アホな行動をとる人間は哀しい。なにしろ、そうした行動によって、ますますダメな人間だと思われ、軽蔑を受けるのだから。
ただ、こうした暴力には抑圧移譲という側面があるのも忘れてはならない。過去に、「上」の立場の人間から言われ無き暴力や、合理性・妥当性にかける注意・叱責・罵倒を繰り返されると、その抑圧を新たに得た自分よりも「下」の立場の人間に移譲してしまう習性が、人間には存在する。これは「ストレス解消」などという生やさしいものではない。抑圧移譲とは、自分が抑圧を受けた事実を「そういうものだ」と積極的に是認することによって、一般化することである。つまり、自分が脆弱な人間(他者よりも「下」の人間)だから暴力を受けたのではなく、一般的に行われることだから暴力を受けたのであるとして、自分が他者よりも「下」なわけではないとするのだ。実際に特別弱い、同期の中で「下」の人間だから暴力的扱いを受けたわけではなくとも、暴力を受けた人間は萎縮して、自分は他者よりも「下」だと感じてしまう。それゆえに連鎖してしまう抑圧移譲は、とても哀しい現象である。
その他にもシーソー的感覚は、様々なことを起こす。他者が褒められたら、全然関係のない自分が貶められたかのような感覚を持つのもそのひとつ。「誰それは〜に優れている」「誰それは〜を成し遂げたらしい」というまったくの第三者の話を聞いて、相対的に自分が「ダメ」だと言われているように感じるのは、常軌を逸した発想に思える。が、そういう人は、しばしば遭遇する。ここでも他者を貶めれば、相対的に自分が「上」になるという発想が出てくるので大変である。
いわゆる「モラルハラスメント」も、シーソー的感覚に基づく側面がある。他者の話や問題をあからさまに無視したり、その発言の意味や重要性を否定することによって相手を傷つける行為は、自分が「上」で相手が「下」だと示す行為に他ならない。相手が抱えている問題やが関心を示していることを、「取るに足らないくだらないことである」と一蹴することは、自分が細かな問題に心煩わされることのない強靱な人間であり、相手はくだらんことに心を囚われる社会に適合できない脆弱な人間である、と示すことであるのだから。
また、地位や能力が高い人間を貶したがる心理も、自分よりも何らかの面で「上」であろう人間の存在が不愉快だからだ。地位や能力の高い人間は人格的に劣るので、自分よりも「下」であるという発想は、もはや信仰のような蔓延っている。例えば、「高学歴者は役に立たない勉強しか能がなく、経験が乏しいクズである」「政治家は金儲けしか関心がないクズである」「金持ちは何でもカネでどうにかしようとするクズである」みたいなフィクションがあたかも真実であるかのように語られ、好んで漫画や週刊誌で用いられるのは、ある面で「上」にいるような気のする人間を「下」と見なせるからである。
シーソー的感覚はまったくもって、いかんともしがたいものであります。
などと言う私も、「シーソー的感覚に囚われて合理的な判断を出来ないアホな奴」という人間像を語って、自分がそれよりは相対的に「上」であるという感覚を得ているのには違いないが。
余談だが、「罪がある人間は他者の罪を咎めてはならない」という論理がまかり通るのならば、社会は成り立たなくなる。ヨハネの福音書8章で、姦淫を犯した女を石打の刑にしようとしている人々に対し、キリストが「罪のない者が石を投げよ」と言うと誰も出来なかったというシーンがある。が、実際の人間社会を営むに当たっては、罪のある人間が他者の罪を裁き、失敗をする人間が他者の失敗を指摘していかなければ、発展も改善もありえない。しかしながら、他者から注意や指摘を受けたものなら、「お前だって〜のクセに偉そうに!」とか言う人間はしばしばいる。他者の罪や失敗を指摘すれば、自己に罪や失敗を相殺出来て、むしろ注意をする人間こそクズであることになるかのような態度で。どういう倫理観に基づく論理なのか、とても不思議であります。
今回の要点:単純なシーソー的感覚に囚われるな。
注意点:別に、特定の人間に対して常に「あいつは俺よりも上(下)だ」と感じるわけではない。ここでシーソーになぞらえた感覚は、その刹那刹那に覚える感覚である。
記述日:2007.05.03
41-03
単なるメモ
・羽田空港の作業車輌の中には、白いパトライトのようなライトが屋根についているものもあったが、非常時には車輌を滑走路横に並べて誘導灯にするのだろうか?
・「天皇制」というコトバは、「國體」をよくある国家体制のひとつとして相対化するためにコミンテルンと日本共産党が用いたコトバである。したがって、「天皇制護持!」とかいうスローガンはちょっとどうかという気がする。
・ある私立大学の理系の研究科で、不正な会計が発覚した。
それを指示した教授はクビだが、扱いは依願退職。教授の機嫌を取るため積極的に関与した者も、仕方なく関与した者も、関わった全ての院生は年度修了を待って退学処分。このような処罰に留めて刑事事件にしないのは、三者にとって得である。
大学は不名誉を表沙汰にせずにすむ。
教授は退職金がつくし、外部に知れ渡らない。再就職も出来るだろう。
院生も裁判沙汰になって有罪判決を受け、社会的に死なずに済む。
ただし一番割りを食うのは院生である。
・岡田真樹駐デンマーク大使は、日本・デンマークの有効のために、現地でコスプレイベントを開いたという……。
41-02
あまりにも安易な……
学部時代の後輩が、何の脈絡もなく、年輩の知人に説教をされたらしい。曰く、「勉強が出来ても現場の経験には絶対に敵わない」と。正直10代のガキでも言えそうなコトバです。勉強批判、経験至上主義、現場主義……こういうことを手放しで述べる人、私は信用しません。特に何を言ったことにもならないのに、役に立つことを言った気になっていることでしょう。ただ、世間でなんとなく信じられている、あいまいで抽象的な原則らしきものにすぎないのに。
さらにいえば、後輩が高学歴であるから「テストの点以外に誇るべきものがない人間」「勉強ができれば世間を渡っていけると思い上がっている人間」と一方的に見なし、それを批判して悦に入っているだけでしょう。後輩の職業人としての在り方や姿勢を見ることなく、長年何となく持ってる高学歴者への反感を口するちょうどいい相手がいたので、何の妥当性もなく口にして溜飲を下げているだけでは。自分ででっちあげた妄想を自分で批判して、何か生産的なコトバとなるのか?ただのオナニーでしょう。
今回の要点:なんとなく信じられている原則を安直に口にしただけで満足するな。
注意点:後輩の職業人としての態度は知りませんが。
記述日:2007.03.19
41-01
相手は得をし、自分は損をする
「相手国の繁栄を嫉妬の目でもって見て、彼等が利得すれば自分たちは損をするとみなすよう、国民は仕向けられている」
アダム・スミス「国富論」より
これは自由貿易についての誤解を指摘した一文である。これは何も、アダム・スミスが生きた時代の人間がアホだということを示さない。現代にも十分通じる。何しろ人間には、「他者は得をし、自分は損をしている」と、まったく根拠もなく思い込みたがる性質があるのだから。
現在でも、モノの自由貿易についてこの一文を当てはめることが出来るが、カネや情報についてこそ必要な警句である。外国人が日本の財産を買い漁っている、日本の伝統や努力を踏みにじっている、手塩にかけて守り育ててきた技術を奪い取っている……。こういう警戒感はとても根強いし、買収に負の側面が付きまとうのも事実だろう。が、カネを拒み、情報の移動・拡散をとにかく忌み嫌っていては、経済の発達はない。もちろん、守るべきは守らねばならんけれども、闇雲に「悪意の外国人が我が国を食い物にしている」と見るのは、あんまり建設的ではないです。もちろん、防衛意識はもってしかるべきだが、いかにカネを呼び込み、如何に情報を売り物にするかも、商売には必要な技術のような気はします。
そもそも、国家や国民という概念で経済を考えることに、どれだけの意味があるかは疑問。だけれども、国民という人工的な概念は、常に自己確認の為に「他者」を必要とする。特に「敵」を見出して脅威意識を共有することによって、団結するのが「国民」の機能とも言えるし、そうした脅威認識こそが国民国家が自らのレゾンデートルを確保するのに必要なものでもある。だから、経済的に「外国(人)」に脅威を感じるのは自然なことではあります。が、グローバリゼーションなどというコトバが普及する遥か以前から、人・モノ・カネ・情報は国家間を駆け回り、企業は国境を超えていた。1960年代には企業はすでに、トランスナショナルなアクターとなっていたはずだ。で、今になって、「日本企業」を「外国」から守るという発想にどれほどの意味があるのかは、相当に疑問であります。
今回の要点:相手の得があれば自分らは相対的に損をするという感覚は、非生産的である。
注意点:アダム・スミスの一節を書き留めておきたいだけだったり。
記述日:2007.03.12