9 一週間程歩くと、山が向こうに見え始めた。砂山ではなく、木の生えた山だ。もう少し行くと、次第に建物も見えてきた。 |
ウォーアは台所に居た。買い物から返って来てから、ずっと気分が悪い。何か自分の中でとんでもない変化が起こっている、そんな感じがした。自分の中に居る何かが、今にも腹を破って出て来そうだった。 阻止しなきゃ。今に『何か』はわたしを壊して外に出て来るわ。そうしたら、きっと今居るお客さんたちに酷いことが起こるわ。そして、アブソンスにも良くないことが起きる。だから、止めなくちゃならない。 ウォーアの手はナイフを掴んでいた。それを自分の首へ近づける。 今のうちに止めなきゃ…… 「姉ちゃん!」 アブソンスが、姉が部屋に居ないのに気づき、ここに来たのだ。 だがウォーアは手を止めない。 「姉ちゃん、何やってんだよ! ……誰か、来てよ! 姉ちゃんが、血がっ……!」 血を流す姉の体を支えて、アブソンスは力一杯に叫ぶ。 「誰か――!」 一階からの声に、ユメが気づいて起き上がる。一瞬は夢かとも思ったが、そうではないようだ。急いで行こうとしたが、アブソンスの 「姉ちゃん、しっかりしてよ」 と泣き叫ぶ声に、ユメは自分一人では対処できないような悪いことが起こったのを感じた。 「セイ、トライ、カム、ナティ、みんな起きろ!」 言いながら、自分の寝台のすぐ隣で寝ていたトライの枕を蹴飛ばす。ユメは部屋の明かりを点けると目を覚ましたトライに言った。 「トライ、みんなを起こして台所に行くんだ。それと、ナティに薬草を持って来させろ。俺は先に行くから。いいな!」 トライが頷く。だが今一内容を把握できないでいた。 ユメの大声に、トライが呼ぶまでもなく、三人は目を覚ましていた。そして一階からの助けを求める声に気づく。 「ナティ、薬草を」 トライが言うと、ナティは急いで荷物の中から薬草を一式取り出した。 ユメが台所に行くと、台所には明かりが点いていなかった。月明かりの中でアブソンスがウォーアを支えながら泣いているのが分かった。 ユメは電灯のスイッチを探し、明かりを点けた。 「姉ちゃん、何でだよ、何でこんなことしたんだよ……!」 泣くアブソンスは血の海の中に居た。そう、まさにそう言うに相応しい。血が、二人の周りに溢れていた。 「アブソンス、どうしたんだ」 ユメに尋ねられて、アブソンスはハッとしたように顔を上げた。電灯が点いたことにも気づかなかったようだ。 「姉ちゃんが、姉ちゃんが……」 そう言って、血だらけの手で涙に濡れた自分の顔を拭った。 だがまだ涙は止まらない。 血の海にユメも入る。ウォーアがナイフで自分の首を切ったことが分かった。 急いで止血しようとするが、アブソンスがウォーアを離そうとしない。 早く止血を……。 そう思って、ユメはアブソンスの頬を叩いた。そんなに強くは叩かなかったが、アブソンスは簡単に転げた。 アブソンスはまだ起き上がって姉にしがみつこうとする。そのアブソンスをセイが抱き留めた。 ユメが自分が着ている服の裾を裂いて応急の手当をする。幸い場所は台所だ。水で傷口を洗って、酒で消毒する。ナティが持って来た薬草で傷口を押さえ、布で固定した。 ウォーアの顔は貧血で青くなっていたが、もう大丈夫だった。 さっきまでセイの腕から逃れようとしていたアブソンスが抵抗を辞めた。セイがアブソンスを離す。ウォーアの顔に赤みが差しているのにアブソンスも気づいたのだ。 アブソンスとセイとユメは、血の付いた服を着替えた。その間にトライたち三人は、ウォーアを寝台に運び、台所の掃除をした。 「こんなに血が出ても死ねないんだね」 トライが呟いた。 「死んで、どうするんだよ。ウォーアには弟が居る。まだ死んじゃいけないんだ」 カムが言った。 確かに、カムが言った通りだ。……アブソンスはウォーアが最近変だ、と言っていたな。それは死のうと考えていたからか……? だか弟を残して死ぬ訳がない。アブソンスが言っていたおかしなこと、がウォーアを死のうと考えさせたのか……? ナティはウォーアを責める気にならなかった。ウォーアが自殺しようとしたのは、何か大切な理由があるような気がした。 掃除が終わると、ウォーアを運んだ部屋に行った。ユメたちも来ていた。アブソンスはまだ泣いている。 「アブソンス、もう泣くのは止めろ」 ユメが言う。アブソンスは涙を拭った。 「ウォーアはもう大丈夫よ。ただどうしてあんなことしたのか、アブソンスは分かる?」 「だから、最近姉ちゃん変だったんだ。気分が悪くなったら部屋に閉じこもって、僕も部屋に入れてくれない」 アブソンスにこんな質問をするのは可哀想だと思った。これはナティの提案だ。ウォーアに最近、何か特別なことが起きたのだ。ウォーアを死のうと思わせる様な何かが。それが分からないと、ウォーアはきっとまた自殺を考える。 「それは夕食の時にも聞いた」 ナティが厳しい口調で言う。 「俺たちが聞きたいのはその前の事だ。ウォーアがそうなる前に、何があった?」 アブソンスが顔を強張らせた。ナティの言い方に驚いたのだろう。 「別に、何もないよ。……ウィケッドから客が来たんだ。その日の夜だよ。姉ちゃんが気分悪いって言い出したのは」 「ウィケッドから? 珍しいわね」 セイが言う。 「そうさ、珍しいから覚えてるんだ。その客らが、洗面所の水が出ないから来てくれって言ってきて、それで姉ちゃんが行ったんだ。それだけだよ」 「その時何かされたんじゃないのか? ウォーアは言ってなかったのか」 「ウィケッドって評判良くないけど、親切だったって言ってたよ。姉ちゃんが水道直したら、お茶入れてくれたって。ここのお茶だったけど……」 そのお茶に何か入れたのか……。 「いいぞ、アブソンス。もう寝た方がいい」 ナティが言う。が、アブソンスは首を振った。 「姉ちゃんの目が覚めるまで起きてる」 「ウォーアの目が覚めたら直ぐにあなたを起こすわ。だから寝なさい」 セイがアブソンスを隣の寝室に連れて行く。 これで解決した訳ではない。それは皆が感じている事だった。 ウォーアが目を覚ましたのは翌日の朝だった。セイがアブソンスを呼んで来る。 「姉ちゃん」 アブソンスが声を掛けると、ウォーアはアブソンスに向かって微笑んだ。そしてユメたちに気づく。 「皆さん」 「ウォーアさん、あなたどうして?」 セイが尋ねる。 「わたし、皆さんに助けられたんですね。……いけない。どうしてですか? どうしてわたしを助けたりするんですか? ……っ!」 ウォーアが苦しそうに顔をしかめる。 「姉ちゃん、大丈夫?」 ウォーアは部屋中を見た。だが道具はどこにもない。 「皆さん、ここから逃げてください。アブソンスを連れて、早く!」 「何言ってるんだよ、姉ちゃん」 「早く! ……逃げないのなら、わたしを殺しなさい。今直ぐ殺して。どうしてわたしを助けたりするの? 殺してよ。わたしがわたしでなくなる前に……!」 ウォーアの剣幕にアブソンスは寝台から急いで離れた。 ウォーアがいよいよ苦しみ始めた。 「ウォーアさん?」 セイがウォーアを気遣って寝台に近付く。 「来ないで!」 そのセイを見て、ウォーアが一言、言う。その直後、ウォーアは叫び声を上げた。ウォーアの腹が裂けて、そこからウォーアと同じ位の大きさの蜘蛛が現れる。 咄嗟にトライが手元にあった花瓶を、蜘蛛に投げ付けた。 蜘蛛は寝台の脇の窓硝子にぶつかり、そのまま表の道に出た。 トライとユメとカムが蜘蛛を追って表へ出る。セイとナティも前の三人を追った。 部屋にはアブソンスと、ウォーアの死体だけが残った。 「何だこの蜘蛛は。ナティ、お前何か知ってるんじゃないのか?」 カムが聞く。 「ウォーアの体を巣にして育ったんだ」 「だからと言って、ウォーアの子という訳でもないしな」 「当たり前よ。ウォーアはこいつのせいで死んだのよ」 セイも言った。 「つまり、遠慮は要らないってことか」 ユメが呟く。 蜘蛛がユメたちに向かって来た。ユメが上から蜘蛛を殴る。殴った所が潰れて、そこから血のようなものが流れた。 辺りの家々から、人が出て来た。この騒ぎに気づいたのだ。二、三人の子どもが、大人たちの輪の中から出て来た。アブソンスと同じ位の歳のその子ども達は恐がりもせず、蜘蛛に近付こうとした。 「来るな、お前ら」 カムが言っても、子ども達は自分が言われたと思っていないのか、蜘蛛にどんどん近付いて行く。周りの大人たちも何かの催し物だとでも思っているのか、誰も子どもを連れ戻そうとはしなかった。 「ワザケヲタ」 蜘蛛が子どもに気づいて向きを変えたとき、ナティが子ども達に向かって呪文を言った。途端に子ども達は動かなくなる。動きを止めた子ども達を、やっと親たちが連れ戻しに来た。お蔭で子ども達が蜘蛛の餌食になることはなかった。 続いて、カムが呪文を唱える。 「チヌ・ペハチ」 蜘蛛は燃え上がった。 数分の間蜘蛛は燃え続け、最後に残ったのは炭のように黒い燃え殻だった。それを見たのも一瞬で、直ぐに、蟻地獄の時と同じように、黄色い砂になって風に運ばれた。 ナティが座り込む。カムも息が上がっていた。 「ナティ、さっきの呪文は……?」 「相手を麻痺させる、呪文だ」 息が上がっているので途切れ途切れにしか話せない。一度に複数の相手に対して魔法を使うと、消耗も激しい。 「子ども達は、どうした。どこに、居る?」 ナティの前に立ったのは、麻痺した子どもを抱いた親たちだった。内の一人は泣きそうな顔でいる。どうやら感謝の言葉は聞けそうにない。 「うちの子に何をしたの?」 「すぐに、元に戻します」 ナティはそう言うと、持っていた袋から丸薬を取り出して子供の口に含ませた。すると子ども達は麻痺が直って動き出した。 親たちは子どもを連れて、各家に駆け込んだ。そして、昨日と同じように、ユメたちの周りには一人も居なくなった。 人々の話し声が消えて、宿からの小さな声に気づく。 「アブソンス」 セイが真っ先に宿に入る。 部屋でアブソンスは姉に近付こうともせず、泣いていた。セイはアブソンスを慰め、ユメとナティがウォーアを見に行った。 「どうなってるんだ」 ユメがウォーアの死体を見て言う。腹が裂けて、内蔵は全く無くなっていた。見えるのは骨と、ウォーアの抜け殻のようになった皮膚だけだ。 「ウォーアを食い尽くして出て来たんだ」 ナティが開いたままだったウォーアの目を閉じさせる。 「アブソンスの家の墓はどこだ?」 ナティが、アブソンスに、という訳でもなかったが尋ねた。デイでは習慣として、墓は一つの家で子孫に受け継がれる。 「知らない」 答えたのはアブソンスだ。 「じゃあお父さんとお母さんはどこに居るんだ?」 「死んだよ」 「親戚は?」 トライが尋ねる。 「それならエクシビシュンに居るよ」 「もっと近くには居ないの?」 「居ない」 「いいさ。どうせ俺たちはエクシビシュンに行くんだから、アブソンスも一緒に行けばいい」 カムが言う。 「アブソンスはいいけど、ウォーアはどうするの? 運べないわ」 「エクシビシュンでは死体は燃やすんだ」 ユメ、セイ、トライにとって、それは初耳だった。そのまま土に埋める、それがデイでの習慣だったからだ。 死体を燃やすことのできる場所までウォーアを運んだのはユメとナティだった。セイたちはウォーアに近寄ろうとしなかった。血が逆流して黒くなったウォーアの顔は、遠くから見ても気持ちが悪かった。 皆で木を集めた。宿の近くの家に事情を話して木をもらうと、その家の人達も協力してくれるようになった。ウォーアは近所の人達に好かれていたのだろう。普通ならなかなか手に入らない木材や紙も、間もなく人一人を燃やせる位に集まった。 アブソンスが集められた材木の片隅に火を点けた。最初は小さかった火も、時間と共に大きくなって、アブソンスには太陽まで届いているように見えた。 第一章 終 (第二章に続く) |