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「ウィンク、勝負!」
「今日これで三度目だぞ 」
ウィンクが驚いたように言う。
「もう今日は駄目だ。俺の体がもたねぇよ」
そうウィンクに言われて、いじけたように下を向くのは、まだ七歳のユメだった。
これはユメの記憶を九年さかのぼる。ジュンサイ=ウィンクイズドはユメの武道の若い師で、当時十六歳、今生きていれば二十四歳の少年だ。
ユメの周りに居た男たちの中では最年少で、本人もまだ師に付いて武道の勉強中だった。栗色の長く伸ばした後ろ髪は、いつもきっちりと編まれている。
ユメの方はこの若い師が気に入って、毎日のように拳の相手を頼んでいたが、ウィンクは多少、迷惑がっているようだった。
ユメは、ウィンクを困らせるのも好きだった。勿論、一日に三度も試合形式の練習をするのが大変なことは分かっている。自分はいいとして、ウィンクはこの後、彼自身の修行をしなくてはならないのだ。
「いいだろ? あと一度だけだ。そしたら明日は一度でいいから」
ユメはそう言って頼み込んだ。
「分かった」
そう言ってウィンクは纏っていた外套を脱ぐ。そうすると、とても十六歳には見えない、たくましい太い腕が姿を現した。
勝負はいつも引き分けだ。互いに本気を出すことがないのだから、当然である。この状態であれば、ユメが本気を出した所で、ウィンクに勝つことはできないように思えた。
しかし、それは大きな誤算だったことが後で分かるのだ。
ウィンクは歳が若かったこともあって、男たちの中では、一番の美少年だった。近所の女たちからの人気も高く、ウィンクは沢山の人から好かれていた。そして、ユメもその例外ではない。ただユメの場合、憧れや尊敬がほとんどだったが……。
ユメはあまり考え込む方ではなかった。それが次なる事件を引き起こしたのだ。
ユメはその日の夕方、ウィンクが恋人と居るところを見たのだ。二人が楽しそうに話しているのを見た。ユメはその時、ウィンクに恋人が居ようが居まいが、自分には関係ないことだと考えていた。
「ねぇ、ウィンク、もし、もしも、よ。もしもあの赤毛の女の子があなたに結婚を申し込んだら、あなたどうする?」
女が言う。冗談交じり、そして本気もあった。ウィンクがあまりユメと仲がいいので、少し心配になっていたのだ。
「ユメのことか? そうだな。何とか上手く言って断らなきゃな。でも、試合の相手を断るのにも一苦労なんだ。もしそうなったら、上手く断れるかな」
ウィンクがそう言って笑う。
女も笑った。
ユメは二人の会話をずっと聞いていた。自分のことが話題にされていると、つい聞きたくなるものだ。しかしその会話は聞くべきではなかった。
恋人がいるということは、他の女は二人の間には入れないんだ。
ユメは漠然とそう考えた。
ということは、ウィンクにとって俺は邪魔なのか?
ユメの考えは一部間違っていた。決して、ウィンクにとってユメは邪魔ではないのだ。将来のことは分からないが、少なくともこの時点では、邪魔だとは思われていない。だがユメはそれに気づかなかった。
それならなぜ、俺に優しくしてくれたんだ? 俺がまだ小さいからか? 子供だから……? それとも、父様に雇われたんだから?
そう考えている内に、『邪魔』という言葉は『嫌い』という言葉へと変わっていった。ウィンクは自分を嫌っていて、それなのに、仕方なく優しいふりをしていた、と。
きっと、そうに違いない、と。
次の日も、ユメは昼前にウィンクに練習試合を申し込んだ。
「ウィンク、昨日の約束どおり、今日はこれ一度だけだから」
精一杯、いつもと同じふりをした。心の中に溜まった怒りを上手く隠して。
「よし。これを片付けてから行くから、先行ってろよ」
その前に使っていた道具を片付けながら、ウィンクは言った。
ユメは闘技場で待った。
そのユメを遠くから眺めて、ウィンクは思った。
ユメはあんな顔をしたことがあったかな。いつも笑っているか、いじけて怒っているかなのに。
ウィンクが見たユメは、七歳の少女には普通あり得ない、怒りでも悲しみでもない、いや、その両方を持った、大人の表情をしていた。
無表情ともとれる、何とも気味の悪い表情だ。
ユメはウィンクが闘技場に上がると、すぐにいつもの笑顔に戻った。
さっきのは俺の勘違いか?
ウィンクはそう思わずにはいられなかった。
審判を引き受けてくれたウィンクの友人のマイキエラが『始め』の合図を送る。
すると当たり前の事ながら、ユメからは笑みが消えた。しかし、その表情もさっきのものとは違う。
本当の勝負は一瞬だ。
いつかウィンクから言われた言葉が、ユメの頭を過る。
素早さのあるユメはその一瞬こそ大事だと、皆から言われていた。つまり、間合いが大切だと。
間合いを掴むのは容易いものだった。幾度となく、ウィンクとは対戦しているのだ。それに本気を出していないウィンクは、隙だらけだった。
ユメに、ウィンクを殺す気など毛頭なかった。ただ、ユメはまだ知らなかったのだ。自分の本当の力を、そして人間の弱さを。
ユメはこの時始めて知ったのだ。人の死を、自分の力の恐ろしさを。
ユメの蹴りが確実に、ウィンクに入る。その後の連続攻撃も見事だった。
ウィンクが闘技場に倒れて動かなくなったとき、ユメは、あれ? という感じだった。何が起こったのか分からなかったのだ。
マイキエラがウィンクを抱き起こす。つられてユメもウィンクに駆け寄った。
「ウィンク、どうしたんだ?」
ユメがマイキエラに尋ねる。その声は震えた。
マイキエラは、ウィンクの頬を叩いたりしていた。胸に耳を寄せて、鼓動を聞こうとした。腕を掴んで脈をみた。……しかし、そのどれにも、ウィンクが生きているという証拠は見出せなかった。
「ばか野郎! 殺しちまってどうすんだよ。お前は手加減ってものを知らないのか!」
ウィンクと同じように、ユメの師でもあり、本人もまだ修行中の、ウィンクより五つ年上のマイキエラは、そう言ってユメの頬を殴った。
マイキエラは泣いていた。もう大人なのに、本気で泣いていた。
「人を呼んで来る。ユメ、ここに居ろよ」
マイキエラはユメにそう言い残すと、ユメを死人と二人だけにして行ってしまった。
残されたユメは、ウィンクに話しかけてみた。
「ウィンク、本当に、死んじゃったのか?」
ユメは囁くように、その名を呼んだ。
ウィンクは目を開けるどころか、少しも動かなかった。
ユメはウィンクの胸に自分の頬を寄せた。もっとユメが小さかった頃に、ウィンクはよく、ユメを抱き上げてくれた。その時、頬のすぐそばに、ウィンクの胸があったのだ。その時のウィンクの鼓動を、今までもそんなに長い間生きてきた訳じゃないのに、懐かしく思い出した。
今のウィンクには、その懐かしい鼓動はもうなかった。
「ごめんね、ウィンク」
ユメはそう言ってから、闘技場を離れることにした。
もう少ししたら、マイが父様や、沢山の人達を連れて来るだろう。
そう思うと、早くここから逃げたくなったのだ。父親の説教を聞かなければならないのは分かり切っている。そんな物を聞くより、一人になりたかった。
ユメはそれから、今まで行ったことのない川へ行った。川を見るのは初めてで、午前中の大雨で水嵩の増した川を見ていると、飽きることがなかった。
ユメは泣かなかった。それよりも、後悔の念でいっぱいだった。
そう、ユメは今でも覚えている。この日は遅くまでそこに居て、ある時自分の名を呼んだ同じぐらいの歳の少女を、川へ突き落としてしまったことを。まさかあれくらいで、本当に川に落ちるとは思わなかったのだ。
大人に会いたくないと思っていたユメも、これにはさすがに焦って、急いでそれを父親に知らせた。
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