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愛の淵 2

 なぜ? 今も十分平和なのに。何をこれ以上望むの?
 シーラはセピアに聞いた。
 もう随分前のこと。
 平和とは、今のことだと思っていた、昔の話。
 一人の名前のない神――姉――が、シーラのただ一人の親類であった。名の無い神は、最初から名を持たずに生まれてきた。国の王と、王妃の間に生まれた子ども。名を持たないのは、それが国の王になる神だから。成人すれば、王の名を受け継ぎ、新たな王となるから。
 シーラは名の無い神の母親が、別の神との間に授かった子ども。
 神は、心が通えば、子どもが生まれる。一目会うだけでも、それが新たなる神の誕生の瞬間となるかもしれない。
 それは、この地に住む神にとってはごく普通の出来事。しかし、王家ではあってはならぬ事だった。
 王妃はシーラが生まれてすぐに、ここよりさらに下に位置する下界へと追放された。
 シーラは王家に引き取られたが、ただ数人の事情を知る口の堅い神々とのみ交流しながら、この王家の庭で暮らしていた。
 外の世界を知らないシーラにとって、外のことを教えてくれる姉とセピアの話が、全てだった。
 だから、この庭以外の世界で、何が起こっているのか、知る由もなかったのだ。
 背も伸びて、髪も地面につくほどにまで長く伸び、すっかり大人と変わらぬようになっても、シーラは何も知らなかった。
 ある日、姉は来なかった。
 セピアと二人で随分と待っていたのに。日が赤く染まるまで待っていたのに。
 次の日になって、姉は静の国の王と結婚することになったと聞かされた。それは姉本人の口から発せられ、シーラは頷くしかなかった。
 ただ、姉が自分の側からいなくなってしまうのが悲しくて、同じように姉を好きだったセピアの気持ちを考えることはできなかった。セピアが庭に来なくなったことにすら、暫く気づかなかった。
 暫くしてそれに気づいても、もうセピアは居なかった。
 シーラは庭を出て、城の上等の部屋に住むことになった。
 王になるはずの姉が、同盟の為に嫁に行く。この国を継ぐのがシーラになるからだ。
 風の吹かぬその場所へは、風の神セピアは入ってこれない。姉はずっとこんな所に居たのだ。どんなに窮屈だっただろうか。
 採光のためだけに取り付けられた窓から、外を見る。それは、シーラが思い描いていた外の世界とは、かけ離れていた。
 下界よりさらに下に住まうと聞いていた、頭に角のはえた生物が、町を闊歩している。
 それに睨まれた神は、跪いて許しを請う。何もしていないのに。
「これが、現実なの?」
 シーラは、ずっとシーラの話し相手をしてくれていた神に問い掛けた。
 彼らは皆知っていたはずだった。この現実を。それなのに、シーラには黙っていたのだ。
 親愛なる神は、静かに目を伏せ、頷いた。
 何年も、何年も、騙され続けていた。この世界は平和だと。
「どうして、冥界の生き物がここにいるのですか」
 親愛なる神は、首を左右にゆっくりと振った。
「シーラ様、いいえ、今は名の無き神よ、彼らは冥界の生き物ではございません。白き壁から次々と出てまいります」
 名の無い神と、自分が呼ばれるのに、違和感を感じた。しかしそれよりも、あの生き物が白い壁から出てくるということは、静の国から来ているということなのか。
「静の国から来ているというのですか。お姉さまは同盟の為に静の国へ行くのではないのですか」
「私は、存じ上げません」
 シーラは唇を噛んだ。聞いて溜め込んできた知識が、すべて間違いだと分かった瞬間だった。
 自分が治めるのは、この国なのだ。
 皆から愛される姉ではなく、誰からも必要とされていなかった自分が治めるには、丁度よいかもしれない、そう思う。
 この国は、もう滅びるのだろう。
 父王もそう考え、娘を一人、ここから逃がしたのだ。
 けれどもそれが、姉が静の国へ行った理由であれば、この国が平穏になりさえすれば、姉が戻ってくるということではないか。
 シーラは前を見た。
 シーラには幸い、なくすものはもうなかった。
 優しい姉と、愛する少年を取り返すことができれば、それでよかった。

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 翌年、シーラは父王から王座と名前を譲り受け、その場で、静の国に宣戦布告した。

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