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愛の淵 3

 すぐに、姉は戻ってきた。
 静の国が、敵国の王女をわざわざ手元に置く必要はなかった。
「お姉さま、無事でなによりでした」
シーラは姉の無事を心から喜んだ。
 しかし、姉からは喜びの言葉はなかった。
「シーラ。あなたはなんてことをしたの? 動の国はもう、戦う力など残っていないわ。国の民を死なせる気?」
 シーラの表情が曇る。
 まさか、そのようなことを言われるとは思っていなかったから、返す言葉も思いつかなかった。
「境界の壁から沸くあの敵のことは、シーラも見たでしょう。彼らを追い返すので、この国はもう精一杯なのよ。今すぐ戦争をやめて」
「でも……」
 戦争が終われば、またお姉さまは居なくなってしまうではないか。
「でも、無理よ。もう戦争始めてしまったもの。今更、引けないわよ。お姉さま、今はわたしが王なのよ。わたしの言葉を、命令を、聞いてくれないと困るのよ」
 シーラの、姉を手放したくないという気持ちが、果たして伝わったのか、それは分からなかった。
 姉は静かに頷いた。そして続ける。
「わかりました。けれどシーラ、あなたは静の国のことを思い違いしているのです。あの白き壁の敵はここだけではなく、静の国にも襲ってきているのです。ですからシーラ、わたしは逃げたわけではありません」
 その後の言葉は、聞くまでもなかった。『静の国と力を合わせれば、あの敵を倒すことができたでしょうに』
「もういいわ。お姉さま。どうか、王家の庭に隠れてください。戦争になって城が例え責め滅ぼされたとしても、庭でしたら安全でしょう」
 最後まで姉に言葉を言わせず、シーラは姉を庭に住まわせた。
 庭であれば、風が吹く。
 わたしが幾ら待っても、セピアは来なかった。
 シーラは思う。
 姉が静の国へ旅立ってから後、何度か庭へ足を運んだ。
 長い間は居られないけれど、いつもセピアが来る時間に合わせて、庭へ向った。
 しかし、セピアが来ることはなかった。
 姉さえも失ったシーラにとって、ただ一つの希望であったのに、彼は来なかったのだ。
 風の神セピアが、姉の姿を見て、またここへ戻ってくるだろう。
 シーラの予想は当った。
 翌日、セピアは姉の下へと降り立った。しかし、後に多数の静の国の兵士を連れて……。

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「王妃よ、戻れと兄は言っている。これは静の国の意思ではなく、我が兄の望み」
 セピアは、軍隊の長である角飾りのある兜を外すことなく、淡々と言った。
「兄は、あなたが戻らないと言うならば、このまま私に、ここを滅ぼせと命じている。この国を統合するのは、静の国の望みでもあるが、私はあなたの意思を尊重したい」
 セピアの後ろに佇む多数の兵士達は、二人の会話を固唾を飲んで聞いている。王妃であった名の無い神が、戻るというか、戻らぬというか。
 戻らぬと言われれば、すぐにでもこの城を攻め滅ぼそう。
 静の国から追放された王妃――動の国の名も無き神は、軍隊の前に立ちはだかって言った。
「暫し考える時間を頂きたい」
 セピアは頷き、彼女の言葉を待つことにした。
「王よ」
 姉に呼ばれ、シーラは進み出た。
「シーラは、セピアが静の国の王子であることを、知らなかったのでしょう」
「全く、知りませんでした」
 素直に告げる。その緑の瞳に、暗い陰が差したのに誰が気づいただろうか。
 セピアが来なくなったのは、姉が居なくなったからではなかった。
 姉が静の国にいるからだったのだ。
 何か苦しかった。
 姉とセピアが二人で幸せになれればよいと思っていた。まだ恋も知らぬ幼いとき。
 今の自分の、セピアに対する気持ちは、これが恋というものであろうか。
 目の前の敵は、今にも城を攻め落とさんとする、恐ろしい敵であるのに、その将を見て、嬉しく思うこの気持ち。
 味方であるはずの、そしてもっとも愛していたはずの姉が、憎く思えるこの気持ち。
「お姉さま、どうか、ここから離れないで下さい」
 憎いはずの姉に、声をかける。
 憎いけれど、やはり愛している。ただ一人の姉だから。シーラに優しくしてくれたのは、彼女だけだったから。
 庭と外は近いが、実際は遠い。城を攻め滅ぼして初めて、庭へ攻め入ることができる。いくらセピアが大量の兵士を送り込んできても、そうやすやすと攻め滅ぼされたりはしないのだ。
 それに、シーラの――王の許可なく、庭を出ることはできないのだ。
 シーラはもう戻らねばならなかった。

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