index>作品目次>愛の淵>愛の淵 5

愛の淵 5

 セピアが、珍しくシーラの前に姿を現した。
 兜を脱いだセピアは、やはり美しく、優しそうで、シーラの心を捕えていた。
「シーラ、義姉上を、説得してくれないか」
 姉の話になることは予想していたが、それでも、シーラの心は冷たい滝に打たれているように、痛かった。
「兄もそう長くは待って下さらないだろう。それよりも心配なのは、静の国の他の軍が、ここへ攻入る可能性が高くなることだ。兄は、もし義姉上が戻るのであれば、わたしにここを守るように言ってくれた。心配はいらない。兄は静の国の王なのだから、わたしが反逆者になるとしても一時のことだ」
 シーラは、姉を静の国へ連れて行かれるのは嫌だったし、セピアが一時とはいえ、反逆者となるのも嫌だった。
「それはできないわ。それではせっかく戦争を起こした意味がない……」
 セピアが、睨むように、シーラを見た。
「今、何と言った」
 一歩、シーラに近づく。
 セピアの眉間に皺が寄る。
「シーラは、自分が姉と居たいというだけの為に、民衆を巻き添えにして戦争を起こしたと言うのか」
 怒られる、そう思うが、それでもセピアが近くに居るのが嬉しいと思うのは、あの毎日の手紙のせいで、シーラの精神がおかしくなっているのかもしれない。
 シーラは微笑んだ。
「……それ以外に、わたしが戦争を始める理由なんて、ないわ」
 セピアが軽蔑の眼差しをシーラに向ける。それすらも、自分を見てくれているようで、嬉しい。
 涙が出そうになる。
 嬉しいからか、悲しいからか、分からなかった。
「わたしは、…わたしはお姉さまと、……セピアが居れば、それで良かったのよ!」
 それを捨て台詞にして、ここから逃げ出したかった。
 ただの我侭だと、醜い感情だと、シーラは思った。だから、そんな自分を、セピアの前に晒していたくなかった。
 それなのに、シーラは引き攣った笑顔をセピアに向けたまま、動くことができなかった。
 ここで逃げたら、自分の非を認めたことになると思ったから。逃げても、今更セピアの心を自分に向けることはできないと思ったから。
 憐れみの眼差しで見てくれているのだと思って、セピアを見たが、彼はそのような表情はしていなかった。セピアの眼差しにあるのは、怒りのみ。
「いいか、シーラ。この国も、静の国も、誰か一人の物ではないんだ。もし誰か一人のものであるとすれば、それは大神だけだ。シーラのものじゃない。兄のものでも、父のものでもない。自分の都合で国を動かすことがどれだけの罪か、今に思い知ることになる。……正直、少しでもシーラを信じていた俺がばかだったんだ。動の国の王が、何の目的もなく、ただ争いをするためだけに戦争を起こしたのだと、ずっと静の国では言われていたんだ。それでも、義姉上の妹なのだからと、信じていたのだが、今お前の気持ちはわかった。もう、頼まない」
 セピアは一気に言って、兜を被った。
 顔が見えなくなる。
 怒りに満ちた眼差しも、もう見えない。
 黒い兜の下で涙を流したことは、シーラにはわからない。
 シーラも泣いたが、既に背を向けたセピアにはわからなかった。

next

 作品目次へ 作品紹介へ 表紙へ戻る

index>作品目次>愛の淵>愛の淵 5