六、変化[へんげ]
部屋の一方の暗く細い道から、足音が聞こえて来た。
スターニーは自分から樽の中に隠れた。ナティセルも、ここに連れて来られた時に自分が寝ていた場所に戻る。
やがて、その暗い道から影が現れた。
ナティセルをここに連れて来た竜だ。蝋燭の明かりに照らされて、その鱗状の肌は橙色に見える。
ナティセルは身構えた。スカートの裏に隠しておいた短剣をそっと確認する。
竜が、ナティセルに近づいてきた。心なしか、あの時よりも小さく見える。
ナティセルの目の前まで竜が迫る。
殺せるのか?
自問した。竜の皮膚は頑丈だと聞く。持ってきた短剣では心もとなかった。
竜がナティセルを見下ろしたまま、動きを止めた。竜の体が小さくなっていく。目線がナティセルより少し高いくらいになったところで、竜は人間の男に姿を変えた。
「目が覚めたようですね」
古いウィケッドの言葉で、男は言った。
「あなたは?」
ナティセルも古い言葉で尋ねる。現在ウィケッドで使われている言語とは異なる言葉だ。ナティセルは教養としてこの言葉を習っているが、一般的なウィケッド人には馴染みがないだろう。
「わたしは、人間が竜と呼んでいる存在です」
男が答えた。
「わたしは十年に一度、こうやって目を覚まして、麓の村から食べ物を受け取っています。今年は、なぜか貴女まで一緒に来てしまいましたが」
困った顔で、男は言った。
十年に一度? なぜか貴女まで?
男の言葉を、頭の中で反芻する。ワークシュナ達の説明では、二年に一度、食料と女を差し出すということになっていた。この差は一体何なのだろうか。
「貴女とわたしが会えたのも、何かの縁。わたしの花嫁になりなさい」
男が言う。
男は嬉しそうだが、ナティセルはゾッとした。男から言われたからという理由だけではない。
男の言葉が、命令形だったからだ。
人間が自分の言う事を聞くのは当たり前とでも言わんかのように。
まるで、ガルイグ達に命令を下す時の自分を見ているようで、気分が悪かった。誰がお前なんかの言う事を聞くものか、と思う自分が居る。
ガルイグ達も、俺に対して同じように思っているのかもしれない。
ナティセルは一瞬思ったが、今はそんなことを考えている場合ではない。
「生憎、花嫁にはなれない。お前には死んでもらう」
ナティセルは、隠し持っていた短剣を目の前に構えて見せた。
男は臆する様子を見せなかった。
構わず、ナティセルは短剣を男の胸へ付き立てようとした。
しかし、剣は深く刺さらずに、すぐに止まってしまった。
剣を刺した場所から、赤い血が男の衣服に広がる。
「お前は、男だな?」
男が言った。
「わたしを騙して、何を企んでいるのだ」
男が、竜に姿を変える。
竜が、吼えた。
部屋が揺れて、細かい石が落ちてくる。
企んでるも何も、殺すって言っただろうが。
ナティセルは思ったが、竜に姿を変えた相手に向かって人間の言葉で声をかける気にはなれなかった。
寝台のようになっていた場所から降りて短剣を構えなおし、竜と向き合う。
短剣には毒を塗ってあったが、相手が人間であることも考慮に入れていたので、致死性の毒ではなく、軽く麻痺する程度の毒にしておいた。今となってそれが悔やまれる。
竜が、ナティセルに向かって腕を振り下ろした。
後へかわす。
すぐに踵が岩にぶつかった。
竜の大きさが、明らかにこの部屋に合っていない。部屋いっぱいに竜は巨大化していた為、逃げ場も狭くなっていたのだ。
竜はナティセルの頭を狙って、左腕を右へ向かって振った。ナティセルは地面へ手を付き、それをかわす。
竜が振るった腕は、今度はナティセルの頭上を通過した。
「大地の精霊、グロードよ。我が呼び声に答えよ」
ナティセルが早口に言う。
地面に手を付いたのは、攻撃を避ける為だけではない。
「鋭き鉾となりて、我が前の敵を貫け」
ナティセルの前の地面が盛り上がった。
精霊魔法だ。
先の鋭い棒のようになった土の塊が地面から伸びて、竜に向かって伸びる。
土の鉾先が竜の皮膚を破って、竜が声を上げた。しかし土の鉾では、竜の頑丈の皮を貫き通すことはできなかったようだ。竜は両腕を振るって、槌の鉾を崩し始めた。
スターニーが入った樽が竜の足元にあるが、心配をしている余裕はなかった。
ナティセルはもう一度辺りを見回した。
ここには土ならたくさんあるが、炎は小さく、光は差さない。水も見えない。この状態では、大地の精霊以外に呼びかけたとしても、意味がないだろう。
かと言って、土の精霊魔法は、本来攻撃型ではない。壁を作って守る為のものだ。
逃げるか?
自問する。竜が必死に土の鉾を攻撃してくれている間に、竜の足元を抜けて部屋の外へ出ることができるかもしれない。
しかし、部屋の外がどのような場所か全く分からない。
良い案とは思えなかった。
ここでやるしかない。
ナティセルは決心した。土の精霊魔法ではこの竜に対抗できないが、時間を稼いでいる間に通常の魔法を唱えれば良いだけのことだ。呪文は高等な魔法になるほど、長くなる。
ナティセルが呪文を唱え終わると、手元から伸びた四本の火の鎖が、竜に向かって伸びた。
爆発音がする。竜に当たったのだ。何本かは竜から反れて、後ろの壁に当たって土煙が上がる。竜がふらついているのが見えた。
その時、紫色の煙が、部屋に充満した。
毒煙……!
口元をハンカチで押さえ、吸い込むまいとする。それでも、少し入って来たようで、意識が朦朧としてきた。
突然、竜が吼えた。尾を激しく左右に振り、岩に叩きつけている。尾に、槍が刺さっている。ナティセルからはそう見えた。
そして、竜がその場に横倒しになる。何が起こったのかわからなかった。火の魔法一つで倒せるとは思っていない。別の何かが起こったとしか思えなかった。
しかし毒煙の効果で、ナティセルは竜の最期を確認する前に、またも意識を失ってしまった。
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