96年1月(つまり高校3年の終わり)、クラスの連中が必死こいて勉強しているとき、私は予備校をどこにするか考えていた。
札幌の予備校なんぞにいっても知っている連中が腐るほどいるだろうし、いい噂は聞かない。いっそのこと、誰もいない仙台の予備校にしようか。いや、どうせならば受験の本場、東京に出たほうがいいかな、などと日夜考えていた。
そんなとき、読んでいた新聞に両国予備校の広告が載っていた。紙面を全部使った広告に、合格体験記が書き連ねてある。「高校の時はバカだったが、厳しい両国予備校で××大学に合格」といった内容のものばかりだ。今まで見た予備校のパンフは、「ナントカ設備完備の寮」だの「何月にはスポーツ大会」だのといった客に媚びた内容ばかりだったが、ここは違うな。
「バカが一流大に合格」というところと、その根拠としての「スパルタ式のシステム」というのに興味を持った。私はさっそく電話して、詳しい資料を取り寄せた。
届いたパンフは凄絶であった。
「日常の厳守心得」「禁止事項」「特訓学習の心得」「日常生活の厳守心得」「日常生活の心得」などの規則・標語が目白押しである。
例えば「日常の厳守心得」は、
一、今日一日素直になること
一、今日一日真面目になること
一、今日一日感謝の心を持つこと
さらに「日常生活の厳守事項」は、
一、健康を第一とし 真剣に勉強し 初志を貫徹すること
一、礼節を重んじ 正直、親切、奉仕の心をもって
人格の陶冶に励むこと
一、整理、整頓、清潔、清掃に心がけ 雑念を一掃して
勉学に励むこと
北海道人の私は、これが「内地的」管理教育か?などと内地へのステレオタイプで考えたものだった。しかし、私は「禁止事項」の「どんなことがあっても他人を殴らないこと(暴力禁止)」に注目した。それに「無理はしない」「健康を第一とし」などの記述も見のがさなかった。
スパルタ式と言えども、軍隊のように鉄拳による「修正」が横行するわけではなさそうだ。それに、受験の第一条件として「健康」を挙げている。好き勝手にやる自由やプライバシーはどうだか知らないが、これはそんなにヒドいところではなさそうだと私は判断した。
そして、凄まじいまでに細分化されたクラス。
大学受験だからと言って、学力のない者に高校3年生の勉強をさせるのではなく、必要ならば中学校レベルの勉強をさせるという文句。
ここでは、効率よく勉強ができると考えた。
私は高校時代、一秒も勉強していない。正確に言うのならば、中学2年の終わりから勉強していないのだ。そのため、高校で勉強をやろうものにも、授業についていくことさえも出来なかったのである。もっとも、努力すれば追いつくことはできたであろうし、その意志もなかったのだが。
私に必要なものは基礎であったのだ。私は予備校に入るまで「SV」だの「SVOC」だのという英文の構造を知りもしなかったし、「as」や「at」というものが何者なのかもわからなかった。
さらに、「学生同仁寮規則」「学生同仁寮細則」を読めば、両国の寮生活がいかに管理されたものかわかる。端的に言えば、「寮生以外の寮への出入り禁止」「大概の私物の持ち込み禁止」「外出禁止」「礼儀・規律を守る」ということである。これぞ正に、私にふさわしい環境である。
私とて、偏差値4〜50のバカが一流大学に入るためには、人の数倍の努力と根性が必要であると認識していたのである。
パンフと分厚い合格体験記を読みふけり、両国予備校に於ける生活・勉強のあり方を想起した結果、私は両国予備校への入学を決意した。
これに対し、周囲の人間は例外なく驚いた。
まず、両親が驚いた。両親は札幌か、もしかしたら仙台の予備校に行くのではとしか考えておらず、しかも入試は始まってもいなかった。姉が現役で大学に入ったこともあり、父母は予備校に関して大した知識はなかったが、よい噂はほとんど聞いていなかったようだった。
「あそこは厳しい」
「ノイローゼになる」
「他にも予備校はあるから考え直した方がいい」
「あそこは大変だからやめとけ」
「誰々の息子がノイローゼですぐに帰ってきた」
両親が両国予備校について聞いていたのは、そんな話ばかりだった。当然、両親は私が両国行きを話したときにはいい顔をしなかった。しかし、私はガンとして両国行きの決意を変えず、両親も「頑張れるのならば、行って来い」と言ってくれた。
両国は通常の予備校よりも料金は高く、しかも両親の反対を押し切っての入学だ。両国予備校に行かせてくれた両親には感謝している。
また、友人も驚いた。
そもそも両国予備校なる予備校について、北海道の片田舎の高校生は知らないのがほとんどなのだ。私は両国について説明した。別に行ったこともない予備校について「すばらしいところだ」などと狂信宗教の信者のようなことは言わない。ただ、いかに厳しいところかを説明し、私の意気込みを伝えたかったのだ。
両国のスパルタ式の教育に対し、誰もが「そこは軍隊じゃないのか」「おかしなところじゃないだろうな」などと冗談で返した。私も半ば冗談のネタとして話題に出したのだから、この反応は期待通りである。
冗談のあとに、「お前が決めたことならば、頑張ってこい」と言ってくれた奴もいたが、「お前なんぞが、そんなところでやっていけるわけがない」と言わんばかりの奴もいた。
「死ぬぞ」「堪えられないぞ」などと連発し、「自由な時間がないことは云々」と説教まで垂れる。
私にとって、なめられることほど腹の立つことはない。
確かに四六時中勉強漬けにはなるかもしれないが、勉強は苦痛ではない。ただ、今までは「勉強よりも価値あること」があったから勉強を一切しなかっただけだ。それに、掃除洗濯もしなければならないし、メシや風呂もある。十分に人間的だ。その程度のことでケツまくったり、死んだりするものか。第一、これは私が自分の意志で選んだことだ。
彼は彼なりに心配してくれていたのかもしれないが、私は「なめられている」との感を禁じ得なかった。
私は「なめられること」に対して、はらわたが煮えたぎるほどの屈辱を感じる人間である。
私は六男である父と四女である母との間に生まれた。両親は両方とも末子であり、私自身も末子である。親戚はほぼ全員が大きく年が離れ、私は常に「幼児」、つまり「劣ったモノ」「意志のないモノ」「人間以前の存在」として扱われた。一族に於ける我が家の地位は低く、その中でも私の扱いは最下級であった。
構造的暴力の中で育ったためか、私は「なめられること」に対して無条件に憎悪を覚える。
私の能力も、意志も、あらゆる私に対する情報を無視し、イメージとステレオタイプだけで軽く見なされることに対し、これを看過する術を私は知らない。
(まあ、現在は、大分丸くなったけどね)
私は高校3年生の末期に於いては、ただの成績の悪いガキであった。
「なめられる」のがどうだと言ってみても、劣等生であるという事実は厳然として存在していた。
少しばかり気の利いたことを言ったり書いたりしたというだけで、物心ついたときから「頭がいい」などと持てはやされ、中学校時代は「天才」などと呼ばれていた。しかし、高校3年生末期の段階に於いては、私は大学合格どころか、高校の成績でさえも下の中という劣等生だった。このまま偏差値的に低いとされる大学なんぞに入ったら、どうなることか。
「あいつ中学校のときはデキたけどよ、高校入って遊んでダメになったらしいぜ」
「あいつ、いつも偉そうにデカいことばっか言ってて、××大かよ」
「所詮あいつも、井の中の蛙だったってことよ」
そんな声が聞こえてきそうだった。
かつて優等生だった私に下されるであろう、世間の評価。
件の友人の「キビしい生活には堪えられない」との言葉。
よく言われる、「成績が伸びるのは現役生だけだ」「浪人しても返って成績が落ちるぞ」との言葉。
担任の「高望みをするな」「『程度の低い大学』がどうだ、などとお前に言えるのか」との言葉。
両親の「もしかしたら途中で帰ってくるかも」との心配。
そして実際に私が劣等生であるという事実。
これらへの反発こそが、私に強い意志を生んだのである。
私が一流大学に受かるためには、
鉄の規律の中で自己を鍛えるしかない。
そして、私は
スパルタ式の予備校ごときに音を上げるような
弱者ではない。
私のこの意志は、
日に日に業火のように
剃刀のようになっていったのである。 |