◆ まみむめも - 魔魅夢MEMO ◆  HOME

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05/07/28(木) CROCKET
05/07/22(金) 大アマゾンの半魚人
05/07/21(木) 殿下と騎手
05/07/20(水) 夢百景:悪魔のはらわた
05/07/17(日) Xのアーチ
05/07/14(木) 夢百景:エミゥに乗る
05/07/10(日) 宇宙戦争其の参(しつこくてすみません)
05/07/08(金) 宇宙戦争その弐
05/07/07(木) 宇宙戦争
05/07/06(水) 怪物大行進
05/07/02(土) 『罪と罰』と謎
05/06/27(月) スウィングガールズ
05/06/26(日) 村内美術館
05/06/19(日) 植物画世界の至宝展
05/06/16(木) JpegAspect(Painter出力Jpegファイル修正ツール)
05/06/12(日) The 100 blue days [ 3 ]
05/06/10(金) ヤング・アン・バンクロフト
05/06/04(土) ベティ・ブープ

2005/07/28(木)CROCKET

26日は台風接近中の東京国際フォーラムに『コロッケ芸能生活25周年記念コンサート』を観にいってきました。

年寄りなので、物まね芸は桜井長一郎とか小野エーイチとか旧いとこから知っているけど、その頃に比べて今の物まね芸はエンターテインメントとしてはるかに進化している。そのなかでもコロッケはスゴイ、というのがナマだとしみじみわかる。

しかし、なんでだれかに似ているということがこんなに面白いのかね。似顔絵も同じだけど、コロッケの芸は山藤塾の過激な作風のだれかれを思い出す。

集大成的コンサートということでテレビで見たことあるネタがほとんどだったが、いくつか(スマップ中居、八代亜紀等)はあきらかに前回聞いたときよりうまくなっているのがおどろきだ。

といってもさすがに新鮮味は少ない。三時間たっぷり生で観ると半年ぐらいはちょっとおなかいっぱいである。

この映画が妙に気になる。オズの魔法使いのような鏡の国のアリスのような雪の女王のような話みたいだけど、異様な傑作か、ひたすら退屈な大駄作かどちらかに転びそうだ。中途半端ということはあるまい。どちらにしてもちょっと疲れそうではある。

2005/07/22(金)大アマゾンの半魚人

DVD鑑賞。『大アマゾンの半魚人』。

50年代を代表するモンスター映画として傑作の誉れ高い(高橋克彦などは絶賛だ)が、もちろん今見ればつっこみどころは満載だ。それでも傑作であることは間違いない。

なんといっても半魚人(原題ではクリーチャー、劇中ではギルマン)の完璧な造型。50年も前の作品なのにまったくしょぼいところがない。モノクロであることに助けられてるとお思いかもしれないが、モノクロでもしょぼいのはごまかせないことは『All Monsters Attack』でいやというほど見せられた。このギルマンの造型は本物である。この作品がなければ、ナショナルキッドの『海底魔王ネルコン』もウルトラQの『海底原人ラゴン』も楳図かずおの『半魚人』も生まれなかったことは間違いない。

半魚人の地上での登場シーンは、『フランケンシュタインの怪物』や『狼男』などでおなじみのクラシカルホラーそのもので目新しいものではない。しかし水中シーンは斬新だ。ギルマンスーツを着た役者さんの泳ぎがすばらしい。半魚人の存在を知らずに泳ぎを楽しむヒロインに半魚人の視点で寄っていくシーンは、あきらかに『ジョーズ』の冒頭で引用されている。

『ジョーズ』との違いは、こちらには「エロティシズム」があることだ。ヒロインのジュリー・アダムスのナイスバディぶりは左の画像のとおりだが、画面ではさらに筋肉質でかっこいい。ギルマンが彼女に惹かれていることはあきらかだが、『キングコング』ほどあからさまではない。

あからさまではないが、彼に気付かない彼女の泳ぎにシンクロするように、ギルマンは優雅に泳ぐ。よりそうように愛撫するように泳ぐ。怪物ものには珍しいほど美しくて妖しいシーンだ。

この映画は大ヒットしたらしい。当然、続編、続々編が作られた。しかしどちらも大駄作との定評だ。ほめているレビューを見たことない。まあ、そんなものである。ちょっと残念。


2005/07/21(木)殿下と騎手

Amazonピーター ラヴゼイ/山本やよい訳『殿下と騎手』(ハヤカワミステリ文庫)読了。

舞台が19世紀ヴィクトリア朝。偉大なる騎手アーチャーが拳銃自殺し、検視審問では熱病による錯乱とみなされた。だが、その評決に疑問を抱く者が1人だけいたのだ。時の英国皇太子アルバート・エドワードである。

英国の実在の(かのヴィクトリア女王の)皇太子を探偵にするという発想が面白い。登場人物も実在の人ばかり。実際に王家の人々の愛人だったなんていう噂のあるスキャンダラスな人々が次々と現われる。英国近代史を知っていると倍は楽しめる(のだろう)。

なんといっても作者のやんごとなき人を書く距離感がいい。

皇太子そのひとの一人称という形式。殿下は英国流のユーモアをちりばめた面白い文章を書くが、いかんせん探偵としてはどうも優秀とはいいかねる。見当ちがいなところばかり調べては運良く真相に近づくが、目の前にあるのに気がつかなかったりする。

では腕っぷしや度胸はというと、これも銃声がすると女性をさしおいてまっさきにソファの影にかくれたり、暴漢につかまって河に投げ込まれて死にかけたり、はなはだもってたよりない。

では、人情派のいい人かというと、ここだけは王族らしく尊大でプライドは大変高い。

そのわりにヴィクトリア女王には頭があがらず、呼出しにびくびくしたり、母女王のお気に入りの妻のごきげんをとるのに懸命だったり憎めないところもある。(そのくせ女好きで妻の目を盗むのにも一所懸命だ)

本格ミステリとしては同じ作者の『偽のデュー警部』にはとても及ばないが、ユーモアミステリとしては出色。なんといっても品がいい。殿下のキャラはなかなか魅力がある。その証拠に殿下の冒険はシリーズ化されている。

*

日本でもだれか「殿下の冒険」を書かないかなあ。

パーティの真っ最中にやんごとなき宮様が急死。自然死としてかたづけられるが、同席していた皇太子が疑問に思い、弟や妹と謎をとく。弟君は魚類学者としての知識を活用して、魚毒による毒殺であることを喝破する。鳥類学者の妹君はパーティ会場の庭の小鳥の行動から犯人を推理する。ついに犯人をつきとめた皇太子はお忍びで犯人を広壮な山の別荘にたずね問い詰めるが、犯人は逃走。皇太子は登山で鍛えた屈強な肉体で山岳地帯を追いつめていく。

皇后陛下が皇太子たちの話を聞いただけで謎を解いちゃう、安楽椅子探偵ものも面白いかも。「さすが、おかあさま!」とこどもたちは感心するが実は大見当違い。ひきこもりがちの皇太子妃がぽつりとつぶやいた一言が真相。皇后は「フン!」

……やっぱり日本ではまだ無理だろうなあ。


2005/07/20(水)夢百景:悪魔のはらわた

いやあ、なんでこんな夢見たかなあ。変な夢を見たときは必ずここに書くことにしてるけど、いくらなんでも昨夜のは人格疑われそうだ。しかし、みちゃったものはしかたがない。こんな夢を見たときも正直に書いたのだから、今回も書いてしまおう。

早い話が『悪魔のはらわた』である。といっても夢の中で鬼畜な所業を展開したわけではない。だいたいホラーは好きだがスプラッタは苦手だ。

いきさつもなにもなく、突然闇の中に裸の女体が横たわっている。年齢もよくわからず、顔立ちも人間らしくなくロボットめいて無表情。長いストレートの黒髪を真中分けにして仰臥している。肉付きもみっしりとしていて生身というより大理石の彫刻のようだ。

不思議なのはその下腹部。柔らかそうな内臓のようなものがぽったりどっさりと乗っている。たぶん腸なんだろうが、傷も見えないし血もまったくなく色はややピンクがかった白。肉屋のショーケースのなかの白モツそのままだ。

その女体の前に私も裸で立っている。ただ立っているわけにもいかないのでおもむろにその女体におおいかぶさる。で、普通なら陰部、今は白モツが積んである中に普通に挿入してみると、これが実に気持ちいい。イカの塩辛とかブタモツにつっこんだらどんな感じか想像してみてほしい。そのとおりの気持ちはよいのだかなんだかたよりないような感触だった。動かしたかどうかの記憶はないが、すぐ終点についたようで目がさめた。射精感はあったが、覚醒してみると別に夢精していたわけではない。ほっとしたような、ちょっと残念なような変な気持ちだ。

しかし、なんでこんな夢見たかなあ。きっと熱帯夜だったからに違いない。(暑いだけではこんな夢みません)

2005/07/17(日)Xのアーチ

Amazonスティーヴ・エリクソン/ 柴田元幸訳『Xのアーチ』(集英社)読了。

フランス革命直前のパリに始まる、後のアメリカ大統領T・ジェファソンと黒人奴隷サリーとの時空を超えた愛。1999年12月31日と2000年1月1日の間に存在するXデー。壮大なヴィジョンで描くラヴ・ストーリー。

てなこと言ってるけど、冒頭はたしかに歴史ロマンらしくはじまります。ところがヒロインが決断する(パリに残るかアメリカにもどるか=愛か奴隷か?)一瞬をさかいに世界が分離してしまう。SFでいうところのパラレルワールド。もう一つの世界の設定は中世的宗教が支配しているのに背徳的に猥褻といういかにもSF的だ。しかし世界と世界のインターフェイスはSF的ガジェットではない。日常的描写のままにいつしか世界が切り替わる。

ワープを制御するスイッチは時空を支配する時空連続体ではなく、ヒロインの自由への希求と所有される欲求との葛藤だったりする、ような気がする。

なんて書くといかにも読みにくそうだ。ところがこれがすいすいぐいぐい読める。文章の力がすごい。訳文がすばらしい。「アメリカ一の幻視作家」らしいけど、文体は明晰で幻視だとすれば実にはっきりした幻だ。

読み終わるとぐったりするけど、それだけのものは得られます。マルケスとかラテンアメリカ小説の好きな人なら、USAにもこんな小説があるぜということで、おすすめ。

東京国際フォーラム『高橋真梨子ライブ』に大人の女の声を聞きにいく。耳で聴き脊髄で効く。


2005/07/14(木)夢百景:エミゥに乗る

こんな夢を見た。

朝、起きてみると家の両側から赤土の土手が左右に延びている。向かい側も土手で、土手にはさまれた家の前の道路も赤土のままである。乾燥した明るい色の土の道が延々と続いている。

道なりに歩いていくと、前方から巨大なエミゥが歩いてくるのが見える。頭のてっぺんまで3mくらいありそうだから、大きさはむしろモアだ。

危険だと思い「エミゥがくるぞう」と叫びながら走ってもどるが、道には誰もいない。人家もなく、車も人工物らしきものもない。いつのまにか家からは遠くはなれてしまっているようだ。まわりは明るい赤土色一色だ。

よく見るとエミゥはさほど危険そうには見えない。近くに寄っても恐れる様子も怒るそぶりもない。

思い切って背中に飛び乗ってみた。エミゥはなにごともなかったように歩き続ける。都合よく手綱のようなものが肩についているので、それを引っ張ると方向を変えてくれる。別に行きたいところもないので、のんびりとエミゥまかせで赤い路を進んでいく。

そのうち、なにかに追われていることに気がつく。車なのか野獣なのかわからないが、なにか黒いもやもやしたものが後ろから迫ってくる。

私が教えるより先にエミゥも危険に気づいたらしく、突然走り出すと一気に土手を駆け上がる。ぐんぐんスピードをあげていく。土手の高さがどんどん高くなっていく。すでに下の道まで10mはありそうだ。視界の左右は赤い色が高速で流れていくだけで、前方しか見えない。背後も見えないが、気配で黒いものがどんどん迫ってきているのがわかる。

黒いものに飲みこまれそうになる寸前、エミゥの手綱を引いて土手からジャンプする。浮遊感と落下感。路の真ん中のこんもり盛り上がった土の小山に着地する。さほどの衝撃もなく、そのまま走り続ける。黒いものは頭上の土手(というより高速道路のような景観になっている。決して人工物ではないが)をそのまま走り抜け遠ざかっていく。

私はエミゥからいったん降りて一息つく。エミゥになにかしゃべりかけるが、エミゥはおだやかな表情でなにも答えない。しかし、私が話していることは理解しているようだ。

旅を再開しようと、エミゥにまた乗る。さっきはまたがっていたのだが、今度はおぶさるような格好になってしまう。しっかりつかまるため、前に腕をまわすとエミゥの胸のふくらみに手が触れる。たしかめるようにつかむと柔らかい感触が伝わってくる。

エミゥがクスリと笑ったような気がした。

2005/07/10(日)宇宙戦争其の参(しつこくてすみません)

てなわけでタコ型宇宙人。1950年代SFパルプ雑誌の挿絵風。

この形にすると「宇宙人」というより、やはり「火星人」と呼びたくなる。『宇宙戦争』の宇宙人が地球に持ち込んだ植物は真っ赤な色をしていた。これは人間の血液で育つということと火星の赤い色も現しているのだけど、スピルバーグ版『宇宙戦争』でもこの設定は踏襲していた。宇宙人は火星からきたのではないようだったけど。

そのスピルバーグ版の宇宙人。1953年のジョージ・パル版の宇宙人にそっくりだ。だからスピルバーグに他意はないのだろうけど、小柄なそのデザインからはなんとなく東洋人をイメージしてるような気がするのは僻目だろうか。

これが偉大な体躯を持った見ためでも圧倒されるような宇宙人だったら、敗北感もいや増し、映画のイメージもずいぶん変わったことだろう。敗戦直後の日本人のような気分か。

原作ではどうかというと「大きな、灰色を帯びた、まんまるっこい、おそらく熊くらいの大きさのしろもの(井上勇訳)」という描写があるから、人間より大きいことは確実だ。

H・G・ウェルズの原作は火星人を人類を超越した存在として書いている。ピエール・ブールの『猿の惑星』のように他国人(日本人)の暗喩としての宇宙人ではない。もちろん、同じ英国人でもウェルズとブールでは作家としての大きさは比べ物にならない。だが、それだけなくウェルズの時代には非白人が脅威であるという概念そのものがなかったのかもしれない。ウェルズが50年遅く生まれていたらどのような『宇宙戦争』を書いたことだろうか。


2005/07/08(金)宇宙戦争その弐

(今日はネタバレ満載につき、未見の人は注意してください)

見るまでがまんしていた、ネットの宇宙戦争評を読んで回っている。m@stervision氏のところをてはじめに、風野ドクターのところからトラックバックをたどっていくと色々と読めます。

さすがにみんな色んな解釈をしていて面白い。

本格的怪獣映画として見たり、キャッチボールシーンにスピルバーグの暴力描写の非凡さを見たり、プロの批評家解説屋の文章よりずっと斬新でためになる。

ラストの傷ひとつないボストン風景は、実はトム・クルーズの夢なのではないか、天国の風景ではないのか、という解釈はおどろいたけど、思い出してみると納得。トムがトライポッドを爆破した直後に画面はきりかわって、群集が道をぞろぞろと歩いていた。「ボストンへ」という標識がかかっていたが、あれはすでに「天国へ」だったのかもしれない。

そんな意味も、もしかしたらこめられているのはないかと思わせるだけの映画であった、ということなんだろう。

私が読んだ中では一つぐらいだったが「宇宙戦争っていうタイトルなのに宇宙が舞台じゃない!」という感想が多かったというのには驚いたなあ。一般常識だと言ってくれ。SFファンでなくたってオーソン・ウェルズがラジオドラマにしたときに本気にした人がたくさんいて全米がパニクったというエピソードぐらい知っていておくれよ。

なぜ電子機器はだめなのにビデオカメラは無事だったのか、などのどうでもいい瑣末な疑問を除くと、一番つっこまれてたのは、やはり宇宙人の敗退理由。100万年も観察してて微生物の研究くらいしてるだろう、ってところ。

たしかに100年前の原作の時代なら、無敵の宇宙人がちっぽけなバクテリアに倒されるというのは「意外な驚き」だったかもしれないが、現代ではちょっと無理がありすぎる。(原作では細かな宇宙人の生理学的設定が書込まれていて結構納得させられてしまう)

わざわざレトロなSFっぽくラストでナレーションをいれているんだから、「宇宙人たちを倒したのは彼らの予想を超えた突然変異を起こしたウイルスだった」とかフォローをいれておけばよかったのに。「彼らが地球に持ち込んだウィルスが地球環境で予想外の突然変異を起こした」でもいい。しかたがないから、自分でナレーションを脳内補完しておこう。(モーガン・フリーマンが日本語かい)

*

難攻不落のトライポッドも「大阪では何体かやっつけたらしい」というセリフがあったが、きっと大阪のオバちゃんの血を吸ってあたってしまったのだろう。宇宙人も気の毒に。

2005/07/07(木)宇宙戦争

ということでSF大作3本の中から、私的に一番期待の『宇宙戦争』を日劇PLEXで鑑賞。仕事で銀座にいったついでに券を買って席を予約、妻と待ち合わせて19:00の回に行ったのだが、そんなことをする必要もないほど全然空いている。えー、あまり人気ないの?

ところがどっこい、これが大変な傑作。近年のSF映画の中でも屈指といっていいのではないか。『未知との遭遇』も『ET』も全然好きではなく、『A.I.』は大嫌いな私だがスピルバーグのSFを見直しました。

なんといっても冒頭30分がすごい。

トム・クルーズの役は港湾労働者だ。一時間に40もコンテナを降ろせる腕前は上司からも一目おかれている。だが、離婚した家族から見ると単なるダメ親父だ。妻と再婚相手の豪華な邸宅があとで出て来るが、トムの家はトレーラーハウスの一歩手前のようなみすぼらしさだ。このへんのていねいな描写もおとーさんとしては好感度アップである。

普通すぎるほど普通の離婚家族の日常描写が、町の交差点でのアレとのファーストコンタクトから一気に大災厄がダッシュする。

地底から突然の怪物=ウォーマシンの登場、群集大パニック、トムの必死の逃走、子ども二人をひきつれて大逃走の開始、までが半端なく怖い。洒落にならない恐ろしさだ。『ガメラIII』の渋谷のシーンが一気に色あせてしまった。

スターウォーズなどだと破壊される風景も未来都市、観客から距離感があるが、こちらはいま現在アメリカのどこにでもある田舎町が、リアルこのうえない壊れ方をする。阪神大震災や911テロが頭をよぎる。スピルバーグの思うつぼである。

ストーリーもラストもH・G・ウェルズの100年前の原作に忠実すぎるほど忠実。50年前のジョージ・パルの『宇宙戦争』だとエイ型の飛行機械にされていたウォーマシンも原作に忠実な触手付きトライポッド。SF者としてはそれだけでおなかいっぱいであります。

ジョージ・パルの映画の有名なシーン(地下室に隠れているところを宇宙人に探索されるサスペンス)のあからさまな引用もあって、スピルバーグのリスペクト精神にニヤリとさせられる。パル版では最後の拠点になった教会が最初に崩れ落ちるのも、たぶんオマージュなのだろう。ウェルズの原作とパルの映画を見ておくと2倍とは言わないまでも、1.5倍は楽しめることでしょう。

*

もちろん、物足りないところもある。ウォーマシンは地下に何万年も埋まっていたことになっているが、そんなに昔から作戦練ってきてラストのアレは唐突すぎないか?原作では空から巨大なシリンダーが降って来る。この方が絵的にも物語的にもしっくりくると思います。

それと宇宙人の形態はやはり蛸型でお願いしたかったなあ。

2005/07/06(水)怪物大行進

シスの復讐』『宇宙戦争』と、上映中または封切り間近のSF大作が目白おしなので、ウォーミングアップをかねて『All Monsters Attack』というDVDを鑑賞。

B級C級の、SF映画というより怪物映画の予告編ばかりを60本も集めたという物好きこのうえない一枚。しかも画質が悪い。

キングコング』に始まり『アルゴ探検隊の冒険』に終わる。中盤くらいには『ゴジラ』をはじめとする東宝怪獣映画が集まっているが、円谷映画の特撮がハイテクに見えるぐらい他の映画のその手のシーンはださいしょぼい大笑い。大勢でつっこみながら見るのが正解なDVDだからそれでいいのであるが。

怪獣ゴルゴ』とか『ロボットモンスター』とか、本や雑誌でしか見たことがない幻の迷作怪作たちの映像が見られるのも収穫。話のたねだけなら予告編で十分である。

本編を見たくなるのは1、2本しかない。それも正統的な興味でなく若いアメリカンな女の子が巨大化する『Village of the Giants』など、下世話な興味でみたくなるのがあるだけだ。(左の画像参照)

*

われらが東宝映画の怪獣たちはもちろん着ぐるみだが、外国の特撮シーンにはは色々な手法があるのがあらためてわかるのが面白い。

地底世界』など着ぐるみもちゃんとある(発泡スチロールっぽさ全開のひどいできだが)が、やはり主流なのはモデルアニメ=コマ撮り方式だ。

元祖は『キングコング』のオブライエンだろうが、その弟子のハリー・ハウゼンが確立した「ダイナメーション」が有名だ。『シンドバッド7回目の航海』の骸骨戦士とか『恐竜100万年』のアロザウルスなんてとこは見事でした。あの『ジュラシックパーク』もスピルバーグはぎりぎりまでこの方法で作ろうとしていたらしい。

もちろんダイナメーションはできあがりは素晴らしいがコストがかかる。使えないような低予算映画はどうするかというと、「実在の生物」を使っている。『恐竜100万年』でもいくつかのシーンで使われているが、作り物のヒレやトゲで「メイクアップ」した本物のイグアナや毒トカゲを人間と合成して巨大に見せかけるという手法だ。(下の画像参照)俳優は結構豪華な『地球の中心への旅』や『失われた世界』なども恐竜はこの安直な方法だった。

本物の生物なのだから、モデルアニメよりリアルに見えそうなものだが、これが全然そうでもないのが不思議だ。どの予告編か忘れたが、恐竜が飛びかかってくるシーンを撮りたかったらしいのだが、どう見てもイグアナが(だれかに)放り投げられたとしか見えない動物虐待なカットがあって、見てる連中全員大爆笑でした。

単に合成技術が稚拙なだけではなさそうだ。イグアナはどう化粧してもイグアナで恐竜には見えない、というのが一番イタいところだ。ならば巨大蜘蛛ならそのまま大きくなったという設定なのだからリアルかというと、やはりこれも変である。本物のタランチュラを使った『失われた世界』より、コマ撮りした『Tarantura』の方がずっとリアルである。

やはり本物の生き物は演技していないから画面から浮いてしまうのではないか。いくら合成しても細かな動きがその場の動きではないのだ。これがコマ撮りやCGIならクリエイターが細部に演技をつけられる。場の雰囲気を込められる。

*

なんだか最近のマンガのアシスタントまかせの背景が、妙にうまいんだけど写真加工バリバリで人物と違和感ありまくりなのと似ているような気がする。最近といってもここ15年くらいのことで、本当の最近のマンガはちらりとのぞく程度なので、見当違いのことを言ってたらご勘弁。

大好きという漫画家ではないのだけれど、ちばてつやの描く背景、特に家、部屋の描写は絶品だった。(過去形なのは最近の作品を見てないから、他意はない)住んでる人の生活の匂いまでしてくるような絵の触感は、写真加工では絶対に出せない。あの技術の進化系のマンガっていうのは今あるのだろうか。


2005/07/02(土)『罪と罰』と謎

Amazonドストエフスキー/江川卓訳『罪と罰』(岩波文庫)読了。

これで読むのは5回目。3回目4回目はここにもレビューをあげている。

前4回は米川正夫訳の新潮文庫だったが、今回はあの『謎とき罪と罰』の作者、江川卓訳の岩波文庫だ。格調高い米川版も捨てがたいが、江川版は現代的なこなれた日本語で実に読みやすい。新潮は二分冊だが岩波は上中下の三分冊。文字レイアウトも余裕があって目が疲れない。はじめて読む方には岩波版がおすすめだ。

読みたい本がたまっているので、あまり再読をする方ではないが、それでも何冊か折りにふれ読み返す本はある。再読の目的は大きく三つに別れると思う。一つ目はあたりまえだが知識の再確認。ノンフィクション系の場合はほとんどこの理由だ。最近記憶力が衰えてきて再読の頻度が上がってきたのがなさけない。

小説を再読する場合は、最初の感動や面白さをもう一度求めて、というのが多い。よくできたエンターテインメントなら、おなじみの約束された楽しみをなんども享受できる。キャラクターの会話が小気味いい作品も再読をさそうが、これも同じ理由だ。

3番目は読み返すたびに新しい発見、感動がある本。以前読んだ意味の下から別の意味が見えてくるような層の厚い作品だ。もちろんめったにそんな小説があるわけはない。本書は本当に少ないその一冊である。

今回は前4回に比べて、普通に面白かったという印象が強い。新訳のおかげか、すでにストーリーが頭に入っているせいか、人物の行動や心理がくっきり明瞭にわかって、やたら面白い。読んでいるあいだわくわくしっぱなしで、読み終わりたくない気持ちにひさしぶりになってしまった。

今回のテキスト上の発見?を以下にメモ。

作者は人間の心=魂=脳中を神と悪魔の戦場とみなしているようだ(もちろん単純な宗教的な書き方はしていないけど)。主人公の犯罪行為や罪の意識といった重い表現だけでなく、軽い戯画的な表現も散見している。たとえば……

この瞬間、ラスコーリニコフは何かにちくりと刺されたように感じた。たちまち彼の気持ちはがらりとひっくり返った。

(第一部上巻108頁)

ちくりと刺したのは……たぶん悪魔だ。

また、江川卓は『謎解き罪と罰』の中で、『罪と罰』にラスコリニコフとソーニャが肉体的に結ばれたことを暗示するテキストを「発見」したとを記している。(もちろん本書には直接的な描写は皆無である)

およばずながら私も気になる部分を「発見」したのでここに記す。かの二人ではなく、別のカップルなのだが。

主人公ラスコリニコフは犯罪実行後の夕刻、錯乱状態で下宿にたどりつき気絶するように眠り込む。

彼は恐ろしい叫び声ではっとわれにかった。(略)号泣と罵声は刻々に強まっていく。そのうちに、ふと彼は、騒ぎの中に下宿のおかみの声を聞きつけ、愕然となった。彼女は吠えるような声でうめき、悲鳴をあげ、泣きわめき、いかにもせきこんだ調子で何やらかきくどいているが、その言葉はまるで意味をなさない。何か哀願しているらしいが、もちろん、それは、階段で情け容赦もなくなぐりつけられている彼女が、なぐるのをやめてくれと頼んでいるのだろう。彼女をなぐりつけている男の声も、憎悪と興奮にかられて、もうぜいぜいとあえぐだけになっている

(第二部上巻233頁)

ラスコリニコフは警察が家宅捜索に来ておかみを尋問しているのだと恐れおののくが、翌朝になると何事もなかったことが判明する。夢だったのだろうか。その日は友人の快男児ラズミーヒンが尋ねてくるが、彼はいつのまにか下宿のおかみをてなづけていて、ラスコリニコフに良いようにとりなしてくれる。

引用部分を以前読んだときは、単にラスコリニコフの罪の意識と高熱から生まれた幻覚か悪夢だと思っていたが、実はラズミーヒンとおかみさんの情事の物音ではないだろうか?夢うつつのラスコリニコフの耳に壁づたいに二人のあえぎ声や行為の物音が聞こえて悪夢を誘発したのではないだろうか。

う〜ん、読み返せば読み返すほど、そうに違いなく思えてきた。

レンズマンの近親相姦といい、こんなことばかり「発見」する自分がなさけないやら誇らしいやら。

*

小説のラストは広い意味のハッピーエンドです。私もエピローグの感動シーンにたどりつくことをめざして何度も何度も読み返してきたのかもしれない。えらそうな再読第三の理由だけでなく、結局、第二の理由が肝心ということですな。思い切りカタルシス。


2005/06/27(月)スウィングガールズ

saxophoneDVD鑑賞。『スウィングガールズ』。

文句なく秀作だし、特にラストの演奏シーンには感動させられる。おそらくスウィングジャズがもっとも似合わない設定を考えたのだろう。答えは女子高校生とズーズー弁と東北の雪景色。当たっている。見事です。

でも、よくも悪くも『ウォーターボーイズII』なのだ。シーンの一つ一つがウォーターボーイズのあのシーンこのシーンといちいち対応してるように思えるのは、狙っているのかもしれないが、やはりマイナスだろう。ウォーターボーイズを見ていなければもっと素直に感動できたかもしれないけど、それでは意味がない。

致命的なのは、またしても指導者役に竹中直人を起用した点。役者としてはきらいじゃないけど(秀吉役はきらいだけど『シコふんじゃった』の大学生役は良かった)またかよ!と思ってしまう安易なキャスティングだよなあ。

では、だれがいいのかと言われると困るけど……雨上がりの宮迫とか?本田博太郎とか?竹中直人より濃いか……


2005/06/26(日)村内美術館

所用があって八王子に出かけたので、前から気になっていた『村内美術館』に寄ってみる。

バルビゾン派(ミレーコロークールベ他)を中心にキスリングルノアールなど、なかなかいい絵がある。彫刻もブールデル佐藤忠良など秀作あり。ブールデルの「浴女」のどっしりしたお尻の量感に惚れました。

家具のムラウチがやっている(ムラウチ本店に隣接している)だけに、館内に置いてある休憩用のソファ、や机・椅子がすばらしい。ふところに余裕のある人なら、観覧後ムラウチ店内で財布の紐もゆるもうというものだ。貧乏な私は図録を買うぐらいで精一杯ですが。

館内出口外の休憩室も見晴らしもよく空いていてゴージャスな気分になれる。機会があればまた来たい。ワイエスも一点あるらしいし展示変えを見逃さないようにしなくては。

昨夜10時20分頃、メールフォームからメールをくれた方、メールも本文も空でした。まちがってボタンをクリックしただけならいいのですが、心あたりありましたら再送をお願いします。

*

本文とメール欄が空だとワーニングだすようにcgi変えようかな。

2005/06/19(日)植物画世界の至宝展

東京藝術大学美術館に『500年の体系〜植物画世界の至宝展を見に行く。

さすが、園芸大国イギリス。英国王立園芸協会のボタニカルアートのコレクションは2万点以上あるそうな。タイトルに500年の体系とうたっているのに偽りなく、展示作品は16世紀から現代のものまであった。

ルネッサンス以前のは「絵画」というより「図譜」というのがふさわしい感じ。芸術性より正確性を追求していることが精緻精細な描写から伝わってくる。

19世紀末からは少し様子が違う。やはり写真の発明と普及の影響が大きいようだ。絵画にとって「写真のようだ」というのが褒め言葉になるのは、逆説のようだが写真のない時代に限る。その逆説のような真実が、写実性を旨とした植物画の世界ではよりストレートな破壊力があったのだろう。

しかし、全盛期に比べ植物画は衰退したとはいえ、消滅したわけではないようだ。20世紀以降の作品ももちろん展示されていて、私にはこちらの方が好ましかった。リアルなんだけど写真にはないなにかがある。植物画が図譜から絵画になったということだろうか。

中ではColin Enbersonという人の「ツバメズイセン」の絵が私的には一番。写実性の塩梅が私好みでありました。もう一つ、今井眞利子の「コシノカンアオイ」も、萌えひろがる白い根がSF的想像力をかきたてられるような迫力。もし行かれる方がおりましたら、ご注目ください。

スティーヴ・エリクソン『Xのアーチ』(柴田元幸訳/集英社)購入。


2005/06/16(木)JpegAspect(Painter出力Jpegファイル修正ツール)

JpegAspec昔、私がCGを描きはじめた頃は、ちょうどPainterがアマチュアCG絵描きの間でメジャーになりかけだった。バージョンは4ぐらいだったでしょうか。同じように画像ビューワーの方はSUSIEというソフトが当時のメジャー。今ではSUSIEプラグインは色々な画像ファイルをデコードする標準になっている。

ところがPainterで出力したJPGをSUSIEで開くと、一本の縦棒のようにしか表示されないという現象が起り、ちょっとした騒ぎになった。

色々調べてみると、Jpegファイルはアスペクト比というピクセルの縦方向横方向の表示密度を指定する情報を持っている。Painterで作ったJpegファイルはここに72:1というわけわからん数値がセットされていることがわかった。

たいていの画像ビューワーはアスペクト比情報なんて無視して1:1で表示するので、なんの問題もなかったが、SUSIEは内部情報に正確に表示させているのが裏目に出てしまったようだ。SUSIEの仕様が正しくてPainterが間違っているのだが、SUSIE側では専用プラグインを作ったりすぐに対応した。しかしPainterの方はメーカーにいくら要望を出してもこれが全然直らないしパッチもでない。極東のフリーソフトで表示できないくらいなんでもない、ということなのだろう。

しかし極東のアマチュアCG絵描きたちはそうもいかない。Painterで描いても最終出力は別ソフトで行ったりしてしのいでいた。私もJpagファイルのアスペクト比該当部分を修正するフィルターソフトを作ってNIFTYで公開したりした。今も使っている人もいるかもしれない。

実はこのPainterのバグはバージョン8.1からは直っているらしい。しかし私は8.1どころか、いまだに6.1を使い続けている。もはやSUSIEで画像を見る人も少ないだろうけど、間違った情報が書込まれたファイルをアップロードするのは気持ちが悪い。結局、いまだに自作のフィルタソフトも手放せないでいる。

この自作ソフト、慣れてしまっているので、さほど気にならなかったのだけど、旧いだけにコマンドプロンプトで動くタイプでスマートではない。ちょっとドラッグ&ドロップを使うソフトを作る機会があったので、ついでにこのツールも移植してみた。上の画像は起動イメージ。(画面はこれだけ)

使ってみると、やはりコマンドラインより全然楽である。下のライオンの絵なども、このツールを通してからアップロードしている。もし私と同じように旧態依然たる環境で絵を描いている人がいたならば、下にリンク貼っときますので自由に使ってください。いまどきのPCなら、上のリンクの実行ファイルだけでたいてい動きます。(Windows98SE以上対応)

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実行ファイルのみダウンロード(12KB)

インストーラー付きダウンロード(1411KB)


2005/06/12(日)The 100 blue days [ 3 ]

Blue day book No.002The Blue Day Book』(Bradley Trevor Greive/石田享訳)より。その3。

and utterly exhausted.

ぜんぜん、元気なんかでない。


2005/06/10(金)ヤング・アン・バンクロフト

A・バンクロフトさん死去 ミセス・ロビンソン役

ファンというわけではないが、やはり『卒業』の主人公のダスティン・ホフマンを誘惑する年上女性役(左の写真)が印象深いですな。ホフマンが演じた童貞のみっともなさも身につまされました。

むしろ私は旦那のメル・ブルックス監督のファンだった。有名な『ヤング・フランケンシュタイン』や『新サイコ』ももちろん面白いけど、西部劇パロディの『ブレージングサドル』がおすすめ。『サイレント・ムービー』にはアン・バンクロフトも「大女優」役で出演してました。

そんなアン・バンクロフトも『奇跡の人』の教師役でブレークするまでは、B級映画できゃーきゃー悲鳴をあげる役ばかりだったらしい。ジェイミー・リー・カーティスと同じだね。でも、Bムービー好きとしては「ヘレン・ケラーを叱咤する女教師」より「巨大ゴリラに襲われるお色気娘」の画像をもって追悼したい。左の画像をクリックして合掌。ご冥福を祈ります。

元家政婦は見た!!TVで証言、若貴問題

この家政婦さんは「個人情報保護法」適用外なんだね。

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「家政婦」さんと「メイド」さんの違いはどこか。たぶん、年齢なんだろうけど、その境界は何歳なのだろう。まあ、大問題ではないけれど、とりあえず花田家の遺産の行方よりこちらが気になる。


2005/06/04(土)ベティ・ブープ

ということで、左はベティ・ブープ嬢のポートレート。ここのところ、Internet Archiveからフリー動画を落として毎晩一本(10分弱)見ている。

ベティさんが日本に紹介されたのは昭和初期のことらしい。猫のフェリックスと同じく、アニメは知らなくともキャラとしては知ってる人も多いだろう。『日本製ベティ・ブープ図鑑 1930‐1960』という大部の図鑑が出ているくらいだ。筒井康隆もファンらしく、彼女の評伝?『ベティ・ブープ伝―女優としての象徴 象徴としての女優』を書いている。

そう、ベティさんの職業は女優なのだ。マリリン・モンローが『お熱いのがお好き』の中で、プップ、ペデドゥ…なんて甘ったれた声で言っていたのはベティさんのパロディ、というか、先輩・女優ベティ・ブープのものまねだったのですね。

などと書いているとベティ・ブープのファンのようだが、子どものときは、あの顔はなにか気持ち悪くて好きではなかった。ベタベタナヨナヨした妙なセクシーさもきらいだったし、正直興味はなかった。ひいきはマイティ・マウスのセクシー&バイオレンスの方だったのだ。

しかし、今回ベティさんを見直してみると、キャラクターもセクシーさやかわいらしさの表現もそこそこ楽しめる。私のストライク・ゾーンも広がったものである。進歩、なのでしょう。

アニメーションとしての表現レベルは高い。ベティさんの顔は記号化したデザインだけど、表情が固定化していなくて目や口がなめらかに動き続ける。筒井康隆が「やはりベティさんにロックは似合わない。スウィングでなくちゃなあ」というように、音楽の使い方が洒落ている。怒る父親の顔が蓄音機になってしまうような、いかにもアニメ的変形による感情表現。そこかしこに出てくる妙なキャラクター、特にお化けたちがユニークだ。

といっても作品によってばらつきは大きい。『Snow White』や『Minnie The Moocher』なんてとこを見てほしい。杉浦茂佐々木マキが描くようなキャラクターたちがたっぷり出てくる。『Minnie The Moocher』のの幽霊は佐々木マキの、『Snow White』の最後に出てくるドラゴンは杉浦茂の、それぞれの作品に出てきても全然おかしくない。彼らはベテイ・ブープというかフライシャー兄弟の影響をかなり受けているのだろう。

アニメだけでなくマックス・フライシャーが描いたベティ・ブープのコミック・ストリップ(新聞連載漫画)もある。10年前くらいにオールカラーでリバイバル出版されたらしいが今は絶版だ。アマゾンジャパンのマーケットプレイスだと25000円くらいする。Amazon.comだと50$だ。さて、どうしようかな。


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