病み上がりの参謀長宅にて
2001年06月09日(土)


 午前中、課長(仮名)宅にいりびたってから、昼頃帰宅。着替えなどをした後、黒天使氏や弥崎氏(いずれも仮名)より借りたWRなどの写真をスキャン。それが終了すると今度は大学へ出発。写真を返却しなければならない。別にこうも急がなくてもよかったのだが、1日で返却する約束で借りていたため、それは果たす。それが信義というものだ。
 稽古出発前になんとか棒術部連中の溜まり場に到着し、写真を返却。用を済ませて、すぐに帰る。すでにOBである私は、今年度はまず稽古には出ない。出てもいいのだが、というかたまには棒でも振りたいが、肩書きが上がると面倒(例えば、稽古後はOB個人に対して部員全員が公式に礼をする。私はそれに値するほどの武道家ではない)。故に帰宅。まあ、それでもたまには出るつもりだが。
 そして再び自宅に到着。部屋の掃除や洗濯でもしようかと思っていると、今度は参謀長(仮名)からCメール。
「今週は話の機会も殆どありませんでしたな。久々に今晩一緒に食事でもどうですか?」


 参謀長は今週カゼのため大学にほとんど来ず、話すこともほとんどなかった。
 話す価値のある後輩(あるいは、私に対して話す価値があると評価している後輩)の誘いとあらば、時間も手間もカネも惜しむことはない。その価値があれば、無理は通す。この日はほとんど家に帰っていなかったが、それでも快諾し、参謀長と私との共通の最寄り駅にて待ち合わせることに。出発時間までに掃除などを出来る範囲でやっておく。
 参謀長とは駅近くのメシ屋で夕食をとり、その後参謀長宅に押し掛けることとなった。その後、棒術部の稽古を終えた黒天使氏も参謀長宅に来訪。この3名、政治学科にして棒術部実務家、そして居住地も近い(地図で見ると3人の家は某駅を中心に三角形を為しているので、「政治学科トライアングル」などとも呼ばれる)。このメンツが揃うのは、かなり久々のことである。もしかしたら正月以来かもしれない。


 酒はごくごく少量にも関わらず、終始笑いが絶えないものであった。笑いが絶えないと言っても、支離滅裂な言動行動をしたり、荒唐無稽な寝言をただタイミングよく言い合うような大衆的なものではない。また、これを読んだ棒術部員は「『派閥』の会合」とでも思い、必要以上に深読みするに違いないが、別に何かを秘密裏に決定する真摯な話し合いというわけでも何でもない。ただの談笑なのだが、政治学科としてのある程度共通の認識に基づいての話にこそ、愉悦を感じていたというだけである。
 その内容は主に、「百姓は政治に対しては『偉い金持ちが、賄賂をやりとりして、悪さすること』というイメージしかない。『派閥』や『官僚』というコトバをとかくマイナス・悪のイメージで使うが、なぜ悪いかどういう意味かまるで考えていない(注1)」というものであった。


その内容はこんな感じである。
「■■に『名を売るチャンスだ』と言ったところ、■■は『いや、そういう政治的なことは嫌だ』と」
「カリスマとか常日頃から凄い人はそれでいい。だが、そうしたものがない人間は政治的努力しかない。人間関係も部も、こうした先輩・後輩という関係も全部政治だろう。それがわかってないんだから、まったく大衆め」
「政治の否定は、社会と人間関係の否定だろうにね。政治が嫌なら、1人で山奥にでも住め。そういう百姓は、政治に対しては『偉い金持ちが、賄賂をやりとりして、悪さすること』というイメージしかない。『派閥』や『官僚』というコトバをとかくマイナス・悪のイメージで使うが、なぜ悪いかどういう意味かまるで考えていない(注1)」
「派閥とか官僚が、実際にどういうものか、どういう機能を果たしているか、大衆はまったく知りませんからね。だから、ごく些細な情報からイメージだけでものを言うんですよ」


 我々は、棒術部に於いては行政官として政治家として名が通っている。
 故に、我々はどうも「情に欠ける」「情よりも『官僚主義的な(注2)』論理を優先させ、物事の『本質』をわかっていない」と見なされることがしばしばある。我々への当てつけのつもりなんだろうけど、私の同期●●が追コンにて最期のコトバとして「合理性とか権利、義務なんてどうでもいい。そんなことよりも(部員全員に対して)お前ら、義理人情に生きろ」などとアホな演説していたこともあった。
 誰が合理性だけで考え、合理性だけのために生きるものか。人間は情緒によって考え、行動する。誰にとっても、無論我々にとっても、物事を為すスタート地点もゴール地点も情緒によって決まる。ただ、手段として合理性があり、現状認識として合理と分析概念があるのだろう。1の情のためよりに99の合理を駆使するのが我々だ。実は黒天使氏は棒術部でもっとも情に厚い人間の1人であるのだが、それを知る人間は多くはない。


 一方、追コンで「義理人情演説」をした●●は、理論や合理性を考えることもなく、いや理論や合理性を屁理屈か情に仇為すものと考え、情こそが尊く、理論や合理は卑しいとでも思っていたようだった。この●●のやってきたことは、いい加減なだけである。
 ●●は、物事がうまくいかないと「やる気」や「他者を慮る心」が足りないなどとわけのわからないことを抜かして、抽象的な気合いや激励をかけるだけ。これを称して私は、「●●は足し算しか出来ない」と評した。つまり、気合いや激励を「加算」することしか対処法がわからないのだ。問題点が見えない。現状の何がうまくないのか、現状はどうなっているのかがまるでわからない(考えない)ので、問題そのものを解決することが出来ない。問題の構造性に関する意見具申やアドバイスなんかは、屁理屈として一蹴。「それよりも原因は、お前らの姿勢・やる気・努力が足りない」としか言えないし、考えられない。いや、物事がうまくいっていないことを、自分への不満や意見具申を、他者が自分に害をなしている、自分を貶めようとしているとしてしか捉えられないのである(注3)。


 これは魔術的思考である。物事への適切な対処方法がわからず、また物事を的確に分析することができない。現実を見る技術と、現実に対処する技術がない。だから、念ずることしか出来ない。
 自分がこれほど情熱を持って、これほど部のため人のために、これほど一生懸命にやっているから、うまくいくに決まっている。これほどまでに献身的に、全てを捨てて、絶大な労力を使って、部のため部員のためにやっている(注4)のにうまくいかないのは、自分ではなく、他者(部の仕事ならば、指揮下の後輩か自分の上司である先輩)が悪いに決まっている。他者が自分ほどの情熱を持っていないから、他者が自分の情熱に応えないからうまくいかない・・・。


 今まで私が23年ちょい生きてきて、こういう傾向にある人間には、わりと出くわしてきた。名門中央大学の、我が栄光の棒術部にもそんな人間がいたものである。●●はまさにその代表格。こういう人間は、意識下の感覚として、自己と他者との区別がついていないのである。もっと言えば、自己(一部)と社会(全体)の区別がつかないのである。
 自分にとって自分の情が尊いこと、情が理性よりは人間の「本質」に近いことは認める。だが、自分の情緒が自分にしか意味のないことを踏まえた上で、自分の情緒と他者の情緒、あるいは自分の情緒と周囲の社会構造との関わり方を考え、全体の中に於ける一部としての自己が、その中で情緒を満足させ物事を為していく技術を身につけていかなければ、魔術的思考に陥る。政治とは、全体の構造、全体と個との関係性などの現状を認識するための技術であり、全体や他の個との関係の中で自己が物事を為す技術である。
 まあ、「政治」というコトバを嘲笑する人間にも、コトバによる自覚なしに政治を為している者、他者に対する感覚と情緒で見事に社会生活を送っている者も少なくはないだろう。そして我々が社会生活を送るときには、「政治」という名を掲げて、全体を、構造を見て、そして他者と他者との関係、自己と自己以外との関係を考えつつ生きているのである。こうした社会生活の送り方に優劣を判定することは難しいが、少なくとも魔術的思考をする人間に、政治を嘲笑される筋合いはない。
 あと、無論、「政治」というコトバを掲げつつも、政治でもなんでもないイカれた思考をしている人間がいることも付記しておく。


 一部を除き、これは私の意見であって別に黒天使氏や参謀長の見解ではない。だが、政治学科の有志が集まるときは、ある程度共通した人間社会に対する認識に基づき、日々の事象をネタに談笑しているのである。


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